社会民主主義者としての清沢洌

佐久間 俊明

「日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総べての問題はここから出発しなくてはならぬ。」(『暗黒日記』1945年1月1日) 昨年は、戦後70年=清沢洌没後70年だった。しかし、安保法制をめぐる議論や近隣諸国との外交関係を見てみると、70年前に清沢が提起した問題が全く解決されていないことがわかる。北岡伸一は、「自己の主張が実現されることによって、その存在意義を失うのが優れた評論家の運命なのである」(北岡『清沢洌』中公新書、1987)と記したが、残念なことに清沢の存在意義は決して薄れていないのだ。 清沢洌(1880~1945)は、「最もラディカルな自由主義者」(丸山眞男)、「戦時下の例外的な自由主義者」(安田常雄)と位置づけられるが、一般には戦時下日本批判の古典『暗黒日記』の著者として有名である。しかし、それ以前の彼についてはあまり知られていない。清沢はいかなる意味で自由主義者なのか。 清沢の「自由主義」とは、思想としての「心構えとしての自由主義」と政策としての「社会民主主義」の二段構えから構成されている。前者は普遍的な思想・生活態度であり、そこから導き出される1930年代以降の(期間限定の)政策が社会民主主義だった。彼が社会民主主義を主張した背景には、イギリス労働党政権の成立、世界恐慌の影響、アメリカのニューディール政策、さらにはスウェーデンの修正資本主義への着目があった。 重要なのは、清沢は社会民主主義の実現にあたって、言論の自由があり誤りを修正できることから、当時、評判の悪かった議会制民主主義に一貫して期待をかけたことである。しかし、それゆえに言論の自由を行使しない現実の議会政治に対しては厳しい批判を行ったのである。 また、本書では清沢単独で議論するのではなく、三木清・河合栄治郎・戸坂潤らとの「自由主義」論争のなかで彼の思想的位置を鮮明に描き出すようにした。 清沢は親米派の言論人とも位置づけることができる。たしかに清沢はアメリカを的確に理解し、勤勉というモラルを12年に及ぶアメリカ経験から得ていた。しかし、彼にとっての政治・外交・思想のモデルとなったのは、アメリカではなくイギリスだった。自由主義をframe of mindとして捉える発想は、イギリスの政治家・知識人から得ていた。議会制民主主義による社会民主主義的な政策の実現や平和を基調とした外交をめざしたイギリス労働党政権の成立は、社会民主主義の提唱など彼に多大な影響を与えたのである。これまでの清沢洌研究で希薄だった「イギリスをモデルとした日本社会の民主化論と国際協調論」という視座は、社会民主主義者・清沢洌像の提唱と並ぶ本書のもう一つの柱である。 ここで現在の世相とも関連する彼の鋭敏な感性を象徴する分析を紹介しておこう。人民戦線を論じた1936年の論説のなかで清沢は、不可避である軍事費の大膨張によるインフレと社会不安から、「ファッショの苗床」が再び培われつつある。そして、「国民の困窮化が一定の限度に達すれば、かれ等はその不満を、それを誘致したところの責任者に持つて行かないで……却つて逆にそれと組んで、大衆自身への圧迫といふ方向に向ふのを常とする」との展望を示す。清沢の批評は、現代社会を批判的に分析する上での貴重なヒントを私たちに提供してくれているのだ。 最後に、いま、清沢の言論と思想から一番学ぶべきことは何だろうか。1935年のある文章で彼は自由主義者について、「汽車が走つてゐる間に、停車場を改造しようとする主義で、停車場を改造するために、汽車の運転をとめることには反対なのです」と説明している。社会全体に余裕が失われ、グレートリセットが叫ばれている。すぐに結果を求める風潮や、議論の相手を「認識不足」と切り捨てる姿勢が目立つ。しかし、社会の変革には時間がかかるのであり、将来を展望する議論を積み重ねて、どのような社会を築いていくべきか、私たち自身が考えていかなければならないはずである。 [さくま としあき/穎明館中学高等学校教諭]