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地方資産家研究に新境地──『近代日本の地方事業家』を刊行して

中西 聡

2015年11月、われわれの共同研究が念願の共著書となった。中西聡・井奥成彦編著『近代日本の地方事業家』(日本経済評論社)である。本の帯にあるように、愛知県知多半島の肥料商兼醬油醸造家「萬三商店」小栗三郎家の18世紀中葉から第二次世界大戦期までの200年の事業展開と地域社会・地域経済との関係を、数万点におよぶ膨大な一次史料から分析した書である。メンバーの多くは、同様の共同研究を大阪府貝塚の米穀肥料商廣海家の史料を素材として進めた(石井寛治・中西聡編『産業化と商家経営』名古屋大学出版会、2006年)が、約10年におよぶ小栗家文書との格闘のなかで、廣海家やそれまでの地方資産家像とは異なる小栗家のイメージが浮かび上がり、これを「地方事業家」という概念で整理した。ここでは、その概念に到達した「裏話」を披露したいと思う。 貝塚の廣海家は、かなり早くから株式投資を積極的に行い、配当収入・役員報酬を原資とする株式投資が1890年代後半から行われていたことで、驚きをもって学界で受け止められたが、これを一般化してよいかは、私自身に迷いがあった。おそらく、廣海家文書の共同研究に参加されながらも、その共同研究で自説を批判された石井寛治先生は、内心では心残りがあったように私には思えた。そこで、幸運にも小栗家文書の共同研究を許された私は、それを始める際に、石井寛治先生も含めて廣海家の共同研究メンバーをお誘いした。実際、小栗家は、明治期は地元愛知県半田の企業勃興に比較的積極的に株式投資を行って貢献したものの、その後公社債投資へ比重を移し、家業の肥料商経営と醬油醸造経営の拡大に力を入れ、自らの事業に強い関心を持ち続けた点で、廣海家とは大きく異なっていた。 私たちは、こうした小栗家の事業への強い関心を、地方資産家ではなく「地方事業家」として表現したいとかなり以前から考えていたが、まだ十分に概念を詰めないままに提示するのに不安があり、社会経済史学会大会のパネルディスカッションで共同研究成果を発表した際は、「地方資産家の多角経営と事業構造」という中間的な表現を使用した。そのパネルディスカッションで、谷本雅之氏より小栗家には事業家的側面が強いのではとのコメントをいただき、それに力を得て本書では「地方事業家」概念を全面に出すこととした。 とは言え、問題はその概念をどのように詰めるかであり、そこで大きなヒントをもらったのが、本書第一章(花井俊介執筆)と、本書第四章(伊藤敏雄執筆)であった。本書第一章は、小栗家の有価証券投資を扱っているが、そこで花井氏は小栗家の株式投資が、地元企業への投資において、事業自体の魅力や地域利害を重視し、そのためリスク管理が甘く損をすることがあったが、それを克服するために公社債投資も行い、その収益で株式投資のリスクヘッジをするというリスク管理システムを構築したこと、小栗家のような地方資産家の存在は、事業内容の面でも、リスク受容の面でも地域の産業化に多様な可能性を与え、廣海家以上に地域の産業化に貢献し得ることを示した(93~94頁)。 また本書第四章は、小栗家の家憲を扱い、小栗家にある仏教思想に裏付けられた家業維持と地域貢献の両立という信条が、当主家族と店員が一体となって継承されたことを示し、それを受けて第三章(二谷智子執筆)では、小栗家が家業維持のために禁欲的な消費行動をとりつつ、積立金を積極的に行い、地域貢献のために寄付行動も積極的に行ったことを示した。本書第三・四章は地方資産家の行動の背後にある宗教基盤を明確に位置付けた。 そのなかで地方事業家の経営行動として、家業志向性と地域志向性の両立をポイントに置くこととし、「地方事業家」を、「社会的資金を集めて新たな企業を興す『企業家』ではなく、また自家の収益性を考えてより有利な投資機会に投資をしていく『投資資産家』でもなく、家業継承と地域貢献の両方を担う歴史的存在」として考えることにした(四八四頁)。 これまでの企業勃興論では、新たな分野の会社を興す「企業家」とリスクを負ってそれらの会社に投資する「名望家的資産家」の結合による、地域社会での新規企業の登場が重視され、廣海家の事例は、それへの批判として、リスク評価を慎重に行う「投資家的資産家」の存在を強調したことに意味があったが、小栗家の事例は、地域貢献としての新規企業の登場と自らの家業の継承・発展の両立をめざす新たなタイプを提示したことになる。 そして、小栗家の事例はそれに止まらず、新規企業の登場のみでなく、既存の家業の拡大の過程で家業の会社化を進めることで、合資会社・合名会社を中心とする別タイプの企業勃興が地域社会で生じていたことも強調することとなった。これまでの企業勃興論で主に取り上げられた紡績会社・鉄道会社・銀行などが、企業合同のなかで次第に独占的大企業となり、専門経営者の登用などで経営者と出資者の分離が進むなかで、家業発展型の中規模会社では、出資者が経営者でもある家業会社が根強く継続された。 第二次世界大戦の敗戦により、経営者と出資者の両面で独占的大企業は断絶することとなったが、中規模家業会社は独占的大企業にならなかったがゆえに、経営者と出資者が継続して第二次世界大戦後も家業経営を維持し得た。愛知県でも、トヨタグループの豊田家、ミツカングループの中埜家、酒造の盛田家など、家業発展の中規模会社が第二次世界大戦後まで連続して経営を発展させており、六大企業集団の株式持ち合いによる法人資本主義とは異なる別の世界を作っていたと考えられる。もちろん、そのままで継続できたわけではなく、戦後の再建の過程で銀行の支援を仰ぎ、銀行の監視をうけるようになった家業会社も多かったと考えられるが、会社の所有権の基本部分は、創業者一族が保持し続けた。 小栗家文書は、第二次世界大戦後も平成期まで残されている。これからわれわれは、第二次世界大戦後まで分析対象として、第二期の萬三商店共同研究にとりかかるが、そこではトヨタグループ、ミツカングループを意識しつつ、愛知県が日本を代表するものづくり産地となった歴史的源流を探りたいと思う。 [なかにし さとる/慶應義塾大学]