• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』201号:三行半研究余滴15 明治の三くだり半   ──離縁状はいつまで用いられたか

三行半研究余滴15 明治の三くだり半   ──離縁状はいつまで用いられたか

髙木 侃

筆者がかかわっている縁切寺満徳寺資料館で今年10月24日から12月13日まで、標記と同じテーマで企画展を行う予定である。その資料選定作業の最中で、展示冊子の表紙にと考えている三くだり半を取り上げることとした。いつものように写真と解読文を掲げる。用紙はタテ24.6センチ、ヨコ29.5センチである。    離別証 今般いと儀、離別仕候間、後日 他家へ縁組致共、決して苦 情ケ間敷事、一切不申、為後 日証依テ如件   東京市牛込区白銀町三番地  明治丗八年  神谷宇吉□印   3月2日     生原いと殿 本文の読み下し文はこうである。 今般いと儀、離別つかまつりそうろう間、後日他家へ縁組いたすとも、決して苦情がましき事、一切申さず、後日のため証よってくだんのごとし 戸籍法施行の明治5年以降、離婚は離縁状の授受ではなく、戸籍への登記が必要とされ、それだけで十分であった。したがって、『文書 例式公私案文 下』(明治11年刊)には、かりに離縁についての示談が成立して生家に帰っていても、届け出がなければ有夫姦、つまり姦通として処断されるとして、届出の必要性を説いた用文章すらみられた。それだけ離縁状慣行が残存していたのである。 右は三行半に書かれ、江戸時代の離縁状を踏襲しているように見えるが、表題は「離別証」で、一銭の収入印紙を二枚貼付していて、離縁状が契約証文と意識されている。なかには契約証文に用いる「証券界紙」の用紙の裏面に書いたものもみられる。これは「裏返す」で離婚を洒落たものであり、本文の内容も再婚許可文言に「自由」たるべくそうろうと表現したものなど明治の息吹を感じさせるものがみられる。 江戸時代に庶民に禁じられた朱肉が許可され、また明治8年には、苗字を必ず唱えることが命じられたので、明治38年のものであるから、当然ながら夫は朱肉で押捺しているほか、差出人も名宛人も苗字を唱えている。 最近、昭和15年の三くだり半を入手した。下に写真のみを掲げておいたが、昭和の時代まで離縁状慣行がなされたことになる。その理由は奈辺にあったのであろうか。 筆者は二つの理由があると考える。一は、届け出のない男女関係、いわゆる内縁や妾との解消の場合である。先に述べた余滴⑨の「妾の三くだり半」は、明治20年と21年の事例であり、余滴⑥では、大正14年の公正証書の付いた三くだり半で、いずれも連れ合いとされる女性は妾だったと思われる。届出をへない男女、つまり、法律上の夫婦でない場合、その関係解消が戸籍という公示手段に頼れないわけであるから、当事者間の書面で行わざるを得ないことになる。 二は、かりに「離婚届」という手続きを取ったとしても、なお夫の手になる「断縁の一筆書き」を必要とする意識である。筆者は昭和40年代後半に協議離婚届を役所に提出したにもかかわらず、どうしても夫と関係ない旨の離縁状を、夫本人に書いてもらいたいがどうしたらよいかという法律相談を受け、その必要はない旨、説得するのに苦労した思い出がある。これは夫の「追い出し離婚」を証するものではなく、夫からの後難のないことを期するために妻側から請求されたものである。とすれば、今日でも「断縁の一筆書き」が夫婦間で取り交わされることが考えられ(妻のみならず夫からの請求もありうる)、なにより夫(もしくは妻)自身の手によって、縁を切ったと書かれることに意味があるからである。 [たかぎ ただし/元専修大学法学部教授・縁切寺満徳寺資料館名誉館長]