アカデミック・エッセイを書く

根井 雅弘

「アカデミック・エッセイ」という言葉はあまり使われないが、私は、専門論文とふつうのエッセイの間のレベルの文章をいつもそう呼んでいる。新聞や雑誌から依頼されるのは、このアカデミック・エッセイの類がほとんどだ。だが、アカデミックな内容を一般の人たちにも正確に伝える仕事はそれほど簡単ではない。というか、エッセイのように読めるのだけれども、全体にアカデミックなflavour(風味)を加えるのは至難なのだ。 この度、私は『経済を読む──ケネーからピケティまで』と題する本を出す機会をいただいたが、この本は、「名著紹介」「エッセイ」「書評」の三部構成をとったアカデミック・エッセイ集である。経済学の名著紹介や軽めのエッセイ集はいろいろな本が出ているが、書評まで入っている本は少ない。実は、私はすでに20年以上も新聞や雑誌に定期的に書評を書いてきているのだが、そのごく一部(経済書中心)は数年前『時代を読む──経済学者の本棚』(NTT出版)と題する本にまとめたことがある。だが、その本に収録されなかった歴史や音楽関係の書評がまだ膨大に残っている。さすがに昔の書評を新刊に入れる気はなかったが、『経済を読む』には、最近数年の間に書いた歴史や音楽関係の本の書評がまとめて収録してある。 ある新聞の書評委員をしていたとき、好んで音楽や歴史関係の本を取り上げたが、しばしばその本の著者から鄭重な礼状をいただいた。相手は私が「京都大学教授」だとは知っていても、経済学が専門だとは知らないケースも少なくなかった。だが、ある手紙には、その分野の専門家よりも丁寧に読んで書評を書いてくれたと感謝の言葉が綴ってあった。 もちろん、私は自分が経済学史家であるとは十分承知しているが、書評の仕事を始めた頃、作家の故丸谷才一氏から「経済学者としてではなく読書人として書評を書くようにして下さい」という貴重なアドバイスをもらった。丸谷さんが選ぶ本も文学ばかりでなく、歴史や音楽など多方面にわたっていたが、あのアドバイスは、「私はあなたが読書人として専門外の本をどう読んだのかが知りたいのだ」と言っておられるように聞こえた。そこで、経済学ばかりでなく、とくに歴史と音楽の本をときに取り上げるようにしたのだが、これが意外に評判がよかった。なかには「学者」というよりも「物書き」のような仕事をしているのではないかというご批判もあるだろうが、私は自分の文章の訓練にもなり、貴重な経験を積ませてもらったと思っている。 さて、『経済を読む』のはしがきにも書いたが、私の出発点は一作目の『現代イギリス経済学の群像』(岩波書店、1989年)であり、その本の副題「正統から異端へ」はいまだに私の問題意識の奥底にまで刻まれているものである。ただ、誤解を招かないように付け加えると、私は単に「正統から異端へ」と流れることを歓迎しているのではない。「異端」を知るにはまず「正統」を徹底的に学ぶべきだとは、二人の師(菱山泉と伊東光晴)から徹底的に叩き込まれたことだが、最近は、この点がよくわかっていない学生や研究者が増えた。1930年代に経済学の一大革新を成し遂げたケインズでさえ、若い頃は、マーシャル経済学という当時の正統派(「新古典派」と呼んでも同じだが)によって鍛えられたのだが、最近、現代経済学の標準的な内容も知らずに安易に異端派に流れる院生が増えたのは憂うべき傾向である。『経済を読む』を書いているとき、折しも、経済学教育の参照基準をめぐって論争があったので、私の基本的な立場をエッセイにまとめておいた。正統派の消化不良から出発したのでは真の異端派は育たないという意見は変わらない。 ところで、アカデミック・エッセイといえば、昔その模範というべき本を読んだことがある。社会学者の故清水幾太郎氏が書いた『私の社会学者たち』(筑摩書房、1986年)である。長短のエッセイを含んでいるが、翻訳書のあとがきに書いたような短い文章でも、難解な内容を読者に飽きさせずに解説する技に感心したものである。自分はとても及ばないが、このような文章を書けるようになることを今後の目標にしたい。 [ねい まさひろ/京都大学大学院経済学研究科教授]