山之内靖先生の思い出

岩崎 稔

山之内靖先生について書いてほしいと依頼されて、あらためてご逝去から二年近くが経とうとしていることに気がついた。先生からはよくお電話をいただいていたが、たいていとんでもなく難しい質問から入る。いきなり「岩崎くん、『存在と時間』のハイデガーとマルクスの関係について、通説ではどうなっていますか」とか、「エルンスト・ユンガーは技術論についてどこまで考え詰めていたのだろうか、きみはどう思う?」といった具合で、口頭試問みたいに始まる。受ける側として身構えなかったというのは嘘になる。ただし、最初にガツンと来る問いに必死で応答すると、そのあとは、そうした問いかけが出てくるだけの御自身の最近の思考について、たっぷりと、しかも楽しそうに話してくださるのが常だった。 思えばわたしは、運のいい人間であった。1990年の4月に東京外国語大学に職を得たことで、仰ぎ見るような多くの先達が揃っている職場環境に恵まれた。山之内先生はその代表格であり、公私にわたって親しく接していただき、実に多くのことを学ばせていただいた。ちょうど先生は、1989年あたりから、世間では「総力戦テーゼ」と呼ばれる論争的な歴史像を論文の形で発表され始めていたから、その時期に同僚になったわたしは、お仕事に強い同時代的共感をもっただけでなく、先生が組織されていた共同研究プロジェクトにもそのまま合流することができた。そのプロジェクトは、コーネル大学の酒井直樹さんやヴィクター・コシュマンさん、ドイツのミヒャエル・プリンツさん、日本語文学の平田由美さんやメディア社会学の佐藤卓己さんをはじめとして、経済学、歴史学、政治学、思想史から文学研究にいたるまで、学際的に広いウィングをもったチームに支えられていた。というよりも、山之内先生ご自身が対話の相手として見込んだひとに、次々に声をかけて作りあげた国際的なネットワークであった。突然かかってくる山之内フォンは、このネットワークのコアメンバーには共通の体験だったのではないか。 昨年二月に先生が逝去された直後に、その「総力戦テーゼ」のインパクトと意義について、若い世代のひとたちとじっくり議論する機会があった。同時代を身近で経験していたわたしには死角であったのだが、テーゼを提示した山之内先生の論考は、論争史としては知られているものの、書誌的に直接にはアクセスできない状態になっていると言われた。「柏書房から出ていたグループの代表作『総力戦と現代化』にしても品切れになっていますから、高くて普通は入手しにくいし、わたしたちにとっては伝説みたいなものなんですよ」と指摘されて、初めて自分たちの怠慢に気がついた。すぐに伊豫谷登士翁さん、成田龍一さんとともに、急遽重要な論考だけを集めて編集し、ちくま学芸文庫から山之内靖『総力戦体制』という論集を昨年末に出していただいた。先生の一周忌になんとか間に合わせることができた。第一に、戦後という社会空間は、その支配的な自己理解とは違って、戦時の動員体制から連続したものとして形成された。しかも第二に、このことを留保なく問題にする先には、近代的な知のあり方そのものまでも根底から問うという課題が浮かび上がるはずだ。この二点が山之内テーゼの核心だった。それを山之内先生は、近代から現代への変容であると表現されていた。しかし、こうした問いかけは、総力戦体制のもとで完成されたシステム社会が機能不全に陥り、いまやわれわれは不分明な未来に入って行こうとしているのだという、覚束なさに彩られたある切実な時代感覚の表明でもあった。 わたしの記憶のなかの山之内先生は、いつもこの感覚を手放さないひとであり、その生のほとんどが学問的好奇心とそれを支える情熱だけからできているひとであった。そのお姿は、東京外国語大学を停年退職され、その後フェリス女学院大学に再就職されて大学院の新専攻の立ち上げに尽力されていた時期にも変わることがなかったようである。フェリス女学院大学において二度目の停年をむかえられたあとも、大学図書館に通って毎日規則正しく書物に向き合う生活を続けられていたため、その様子は他の教員や学生たちの無言の規範になり、先生のための特別な席が決まり、そこをめぐっていつのまにか不思議な秩序ができあがっていた、と聞いている。 わたしも、先生との四半世紀以上のお付き合いのなかで、いったいなんど勉強会や研究会を開いたことだったろう。正式な会合だけではなく、三、四人で集まって意見交換するおりにも、先生はきまって研究会をモデルにしてふるまうから、「レジュメ」を準備され、読了されたばかりの最新刊のレビューが織り込まれている刺激的な報告をしてくださった。お体のせいでそうした研究会を自在に開けなくなってからは、議論の主要な手段は電話に限られるようになった。最後の三、四年間のお電話のなかでとくに覚えているのは、日本経済評論社から出た「21世紀への挑戦」というシリーズの第一巻として、先生が島村賢一さんとともに編集を担当された『哲学・社会・環境』について、わたしが『週刊読書人』に書評を書いたときのものである。シリーズ全体についてはともかく、第一巻の個々の論者に託した山之内先生の編集意図は痛いほどよく分かったから、自分の理解の道筋を整理して率直に評価したのだが、このときばかりは「口頭試問」抜きで喜んでくださった。しかし、そんな風にただ褒められるのは、変な感じがした。もっとひりつくような時代感覚を研ぎ澄ませて議論する山之内さんのほうがよかった。 だから、冥界からの学問的長電話というのはどうだろう。2015年のこの悩ましい知的状況を、先生ならどう裁断されることだろうか。それとも、「電話などというメディアはすでにとっくに過去のものになったのに何を言っているんだい、きみは」とまたまた時代感覚で先を越されるのだろうか。 [いわさき みのる/東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授]