博士論文のネット公開と出版

高嶋 修一

2013年に学位規則が「改正」され、それまで「印刷」によることとされていた博士論文の公表が、「インターネットの利用」によることとなった。そうなると課程博士論文を基に専門書を出版するという業界慣行はどうなってしまうのか、という問題が生じるわけで、この間ことの成り行きに関心をもってきた。
この話、初めて聞いたときから何となく気に食わないのだけれど、それがどうしてなのか、うまい説明がなかなか見当たらない。読み手としてはやっぱりハードカバーの本が好みなのだが、それはお前の頭が古いからだ、と言われればそれまでである。書き手としては、電子媒体で出版するのと同じようなものだから、深刻な実害と言えるほどのものはない。印税が入らないかもしれないけど、そんなものを期待する輩は『評論』の読者にはいないだろう。画面より紙のほうが頭によく入るのだ、という言い訳を思いついたので、インターネットで「読書行為における媒体種別が理解度に及ぼす影響の認知科学的研究」という類のことを検索したら、たくさん論文が出てきた。やはりネットは便利だ(苦笑)。
一番大きな影響を受けるのは出版社、とくに紙媒体にこだわる出版社だろう。博論を出版しても、同じものがすでにネットで公開されているのならば商品価値は無いに等しい。一大事だと早々に栗原社長に注進申し上げたのだが、その時にはキョトンとした様子で取り合わず、半年以上たってから「こりゃエライことになったな」と来た。だから言ってたじゃないか。
そもそも、どうして政府はこんなことを始めたのだろう。確かに旧学位規則が義務付けていた「印刷公表」は結構ハードルが高い。お金だってかかるかもしれない。1990年代以降の博士急増で、出版できない論文がどこかで溜まってしまって規則が空文化してきたのを、誰かが何とかしようと思ったのかしら。規則改定を担当した委員会の議事録を意地悪く読んで(これもネットに転がっていた)、こんな解釈を開陳したら真面目な仲間に叱られてしまった。世の中には私が暮らす経済史業界よりもスピードが求められる分野もあるだろうから、ネット公開のほうが合理的ということもあるのかもしれないが、それなら「印刷またはネット」と、選択肢を増やせば済んだはずだ。やはり解らない。
そんなところへ、雄松堂書店が博論の簡易出版を行う事業を立ち上げるという話が舞い込んできた。詳細は省くが、企画書には「出版に関する権利を著者の選択の範囲に取り戻すために」とある。これだ!そう、自分の研究は自分のものだ。たとえ一農村の事例研究にすぎなくても、論理的飛躍が大きすぎて説得力に欠けると言われても、600部しか刷らないと言われても、とにかく私のたった一回の青春を捧げた、他ならぬ私のものだ。他の誰にも触らせやしない。いつ、どうやって、どんな形で誰に届けるか。そんな大事なことは、俺が決める。博士論文にはゼーキンが入っている?ケチなことを言うな。
なんだか「吟」氏が乗り移ったみたいになってきたけれど、論文をどんなふうに公表するのかは著作人格権を持つ執筆者に属すべき権利だし、それは憲法が保障する言論・出版の自由の一部を構成する、と思う。だが、時勢の前にはこれも繰り言にしかならないだろう。
嫌な流れに抗うには、楽しいことをもってするのが良いのかもしれない。最近、政治経済学・経済史学会で二つの楽しい企画が始まった。一つは、6月の「博士論文報告会」。新しい博論を、研究者のみならず出版関係者にも紹介し、出版の機会を提供しようという試みである。現行の学位規則の下でも、出版の予定がある場合はネット公開を差し止められるという運用を利用したものだ。いずれはネット公開するにしても、その時には本が出ている。もう一つは、10月の大会に合わせて開く「若手懇談会」で、過去二回は博論の執筆と出版をめぐる話題を扱った。参加者の経歴や研究分野は様々であったが、「博士論文を書くこと」と「博論をブラッシュアップして出版すること」は研究遂行上の異なる階梯に属し、本を出すことはよりよい研究成果を生み出すうえで有用である、という意見では概ね一致を見た。
「ネットの博論だけ読んでもだめだよ、ちゃんと本になったほうを読まなきゃね」、そんな言い方がこれから広がっていくのかもしれない。
[たかしま しゅういち/青山学院大学准教授]