沖縄と日本、70年とさらなる断絶

来間 泰男

私は、沖縄に住んでいる(住み続けている)沖縄人であるが、これまで研究・調査・思考を重ねてきて、沖縄は日本とは違う、とつくづく思っている。私は沖縄にだけ住んできたのではない。1970年の時点で数えてみると、沖縄と日本にほぼ半分ずつ住んでいたことになる。この「半々の経験」が私の考えの基礎をつくっている。
さて、沖縄の70年を、日本の70年と対比しながら、描いてみたい。
戦争は、日本では主として空襲の形で被害を受けたが、沖縄では地上戦であった。この沖縄戦での死者の数は20万人(アメリカ軍人12,000人、日本軍人94,000人、その他94,000人)で、その他はすべて沖縄人、内訳は「一般戦闘参加者」55,000人、「一般住民」39,000人である。日本軍人の中には沖縄人が28,000人含まれている。沖縄人の合計は122,000人となり、1940(昭和15)年の574,000人と比べると、21%にあたる。
戦争が終わったとき、日本はアメリカ軍(を中心とする連合国軍)の占領下に入ったが、政府機構が残っており、それを通しての間接統治であった。沖縄もアメリカ軍の占領下に入ったが、そもそもから日本とは分離されており、行政機構は残っておらず直接統治となった。
日本では、占領統治の期間が1952年で終わり、沖縄では1972年まで続いた。52年は対日講和条約の発効した年で、「日本が独立した」とされたが、このとき沖縄は日本政府の同意によって日本から分離された。日本の祝賀の日は沖縄の「屈辱の日」である。
日本は講和と同時に日米間で安保条約を結んだ。これによって駐留アメリカ軍に軍事基地その他を提供することになったが、この条約は沖縄には適用されなかった。沖縄のアメリカ軍は、誰に気を遣うこともなく、自由に、軍事基地を設定することができたのである。
沖縄におけるアメリカ軍の占領統治は、軍事権力むき出しであった。基本的人権は踏みにじられ、主として「祖国(日本)復帰運動」が弾圧の対象であった。アメリカ軍・兵による事件・事故と犯罪に対して沖縄側は手を出すことができず、全域が「治外法権」であった。人びとはそれでも「復帰運動」をやり通した。
1960年代の半ばから日本政府が動き、またアメリカ政府も「沖縄返還」を考え始めた。そうなると、「復帰運動」は重石を取り払われたように、ますます盛んになっていった。もはやこの運動は弾圧の対象ではなくなったのである。かくして、1972年に沖縄は日本の「沖縄県」に復帰した。アメリカは沖縄の施政権を日本に返還する一方、軍事基地についてはその機能維持を確保した。そこで、復帰後の沖縄の主要課題は「基地撤去」となったのである。それは、単に諸課題のうちの一つというのではなく、主要な課題なのである。
復帰にあたって、日本政府は各種の特別措置を打ち出した。それは、①戦時被害への償い、②アメリカ占領下27年間の償い、③今もアメリカ軍基地を抱えていることへの償い、という性格のものである。施策は多岐にわたるので、その評価も肯定・否定とそれぞれ分かれる。沖縄では全否定の論者が目立つが、そうではあるまい。
当面の論点は、このような特別措置が手直ししつつではあるが、40年間も続き、さらに10年間も続けられようとしていることの評価にあろう。私はもうやり過ぎだと思っている。そして、なぜ続けられているかといえば、今やアメリカ軍基地の受け入れに対する償いのためであり、新しく基地を建設することに同意を求めてのそれとなっていることである。この要請を拒否せねばならない。
以上は、「沖縄は日本とは違う」ということであり、それは大方の理解していることである。そうではなく、「沖縄は日本とは違う」という私の理解は、もっと深層に及ぶものである。それはここでは取り扱わなかったが、日本経済評論社から刊行している「シリーズ沖縄史を読み解く」全5巻(第5巻は未刊)をご覧いただきたい。
[くりま やすお/沖縄国際大学名誉教授]