戦争、そして70年

原 朗

戦後70年だと誰もが言う。正確には敗戦後70年だ。どの国と戦って敗れたのか。大方の通念はアメリカに敗れて70年と受け止められているようだ。テレビや新聞でも対米戦争は大きく取り上げられるが、日本が中国にも負けたということはあまり意識されていない。近代日本の歴史を考えるとき、これは相当大きな問題である。
敗戦時に中国にいた日本軍はざっと数えて105万人、中国大陸での戦死者は日中戦争から通算して71万人で、海外戦没者240万人の3割に達する。東京大空襲と原子爆弾の記憶は、中国での戦争がいかに長期にわたり日本軍に頑強な打撃を与え続けたかを忘れさせたようだ。
その中国の側から見れば抗日惨勝七〇年の記憶は、それだけでなく1915年の21カ条要求100年、1925年の5・30事件90年、1935年の抗日救国宣言80年と、いずれも対日関係が悪化した年の記憶とともにあり、日清戦後120年も忘れられていない。
同様に朝鮮半島から見れば、日本の敗戦70年はすなわち植民地からの解放70年だが、1945年から逆にさかのぼって70年前の1875年は江華島事件の年である。戦後に限ってみても、今年が日韓基本条約50年だということは、「戦後70年」の声にほとんどかき消されている。
ではひるがえって70年とはどういう時間か。70年という時間を歴史年表の上でスライドさせてみよう。1945年の敗戦を「第二の黒船」というのなら、第一の黒船、1853年浦賀来航から70年後は1923年、まさに関東大震災の年になる。近代日本の始まりを1871年の廃藩置県とするなら、その70年後は1941年、日中戦争を継続しつつ米英など連合国との戦争にまで突入していった年である。現代日本の始まりを1945年の敗戦とすれば、その70年後が現在だということになる。近代の歩みと現代の歩み、戦争の歴史と平和の歴史、両者の大きな対比の基礎には、そこに生きた人々一人ひとりの生活があった。
日本の社会を総括的に考えるとき、出発点となるのはやはり人口である。生きている一人ひとりの存在こそが、すべての経済的・政治的・文化的活動の究極の源泉であることは疑うべくもない。戦後70年の出発点、1945年の人口は72500万人で、前年から106万人以上減少している。減少の大部分は戦争で死んだかあるいは殺された人々だ。
敗戦後ほぼ70年たって、昨年10月の人口は1億2708万人である。うち70歳以上人口は2384万人で18・8%、つまりほぼ6人に1人が戦前戦中生まれ、6人のうち5人は戦後生まれとなった。物心のつく年を仮に5歳とすれば、かすかにではあれ戦時の記憶を持っている人は75歳以上の1591万人で12・5%、ちょうど8人に1人ということになる。
いま60歳の現在の首相は、もちろん戦争というものを知らない。そしてむやみに70年前の敗戦という歴史経験を忘れたいようだ。しかしそれには両面がある。一方の戦勝国であるアメリカに対してはひたすらその意に従うことに努め、他方の戦勝国であった中国に対しては対抗意識を強めるばかりにみえる。敗戦後70年にして日本の首相は米国議会で「謝罪」を意識的に避けた演説をした。敗戦後40年にしてドイツの大統領ヴァイツゼッカーは明確な「謝罪」の演説により世界に倫理的な感動を与えた。対比はあまりにも明らかである。敗戦国ドイツが欧州統一の基軸国の一つとなったのに対し、敗戦国日本は東アジア地域で外交的困難の中に孤立している。日本の周囲では過去の戦争が落す影は現在もなお濃いのである。
歴史はつねに激動する。分岐点はつねにある。前途の見極めは毎日の選択によるほかはない。選挙で現政権を選択したのも現在の有権者である。一方で潜在的な戦争への危険が格段と強まり、他方で戦争体験の全くない世代が8人のうち4人になったいま、戦争を拒否する選択を堅持する力は言論と出版、各種の媒体による正確な情報発信に頼らざるを得ない。教育基本法や学校教育法が大きく変更された現在、言論と出版の責務はさらに大きい。
漢字の字義をみれば、「評」とは言い分を平等にぶつけて物のよしあしを公平に品定めすること、「論」とは筋道をきちんと整理して道理を述べ意見を主張することである。日本経済評論社の出版活動がこの字義に則りさらに活発になることを期待する。
[はら あきら/東京大学名誉教授・東京国際大学名誉教授]