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  • PR誌『評論』198号:三行半研究余滴⑬  婿養子の三くだり半

三行半研究余滴⑬  婿養子の三くだり半

高木 侃

結婚には嫁入り・婿入りがあるが、離婚のときには、いずれの場合も夫が離縁状をしたためて妻に渡した。婿も同様で婿が書いたのである。川柳の「去状を書くと入り婿おん出され」という姿が現実のものであるとしても、離縁状は婿である夫(男性)が書いたのである。
配偶者が家出し、事実上の離婚状態になったときにはどうなるのか。妻の場合は夫が家出を理由として三くだり半を書いて渡せば済むが、婿が家出の場合は、妻方で離婚を請求しようにも離縁状発行者がいないのであるから困ったことになる。もっとも夫が家出したとき、幕府法上、12か月を過ぎれば、妻側の願い出によって再婚できた。つまり、公権力による離婚の申渡しがなされたのである。とはいえ、婿からの離縁状が離婚の確証としては一番である。そこで婿入りにあたって、あらかじめ「万一私心違いにて家出いたし候節は、離別と思召しくださるべく候」としたためた元治2(1865)年上州佐位郡(群馬県伊勢崎市)の「先渡し離縁状」を受理した事例すらあった。当時の予防法学的一面が垣間見られる。
実際、先渡し離縁状を受理しておくなどということは少なく、婿の関係者が代理して、離婚に責任を負うことで解決されることが多かった。今回の事例である。
離縁状の写真(左頁)と解読文を掲げる。用紙はタテ26.5、ヨコ34.5センチで、用いられた地域は不明である。
   差出申一札之事
去十二月中大助と申者貴殿え聟養子
ニ差遣候処、当正月中風と家出いたし、行衛相知れ不申、右ニ付拙者共引請、離別いたし候処、相違無御座候、若又此後大助より六ケ敷義申来共私共引請、貴殿え少も縁組等ニ故障為申間敷候、仍之何方よりも縁組可被成候、為後日差出申一札仍て如件
天保三年辰四月
           伊 助㊞
          仲人
           林 蔵□印
     七左衛門殿
本文の大意はおおよそこうである。
去年12月に七左衛門家に大助が仲人あって婿入りしたものの、理由は定かでないが、翌正月ふと家出し、行方知れずになった。ついては伊助と仲人が責任をもって、離別の事を取り扱いました。もし大助からかれこれ難儀を言ってきても両人で引き請け、七左衛門方の縁組には少しも故障は申させませんので、どこから縁組なされても差し支えございません。
本件は、結婚生活実質一か月後の婿家出であった。婿大助の親族と思われる伊助と仲人が責任を持って離婚のことを取り扱うことが誓約されている。
ところで、婿養子の離縁状には特徴的な文言が見られたのであろうか。前回まで見てきたものはいずれも嫁入りの妻に交付する離縁状であり、その代表的とされる妻あて離縁状書式を掲げる。因みに婿差出しの書式は私はこれまで見ていない。
    里ゑん状
一其方事、我等勝手ニ付、
此度離縁致候、然ル上ハ向
後何方え縁付候共、差構
無之、仍如件
        夫
         誰
    たれどの
その後半部分、再婚許可文言には、離婚後は「何方え」つまり夫の家を出てどこへ再婚しても構わないと書いたのである。大げさに「日本六十余州の何方え」などというのもみられた。
婿の場合、その家に残るのは、家付き娘、つまり妻の方で、離婚後はどこから婿を迎えても差し支えないことを「何方より」と表現したのである。上の婿代理のものも「何方より」である。「何方より」とあれば必ず婿の離縁状であるが、婿でも「何方え」と書いたものも関係文書からわかり、この種の離縁状もかなりあると推測される。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]