色川大吉先生のこと

渡邊 勲

日本経済評論社と色川大吉という「巨人」との結び目に、この小文を書いている「私」が係わっていたことは間違いない。
社長の栗原氏は、先生の「昭和自分史シリーズ」(全四巻)の刊行が始まった頃だったので、かれこれ十年前になるが、私にこう言った。「俺はずっと大の色川ファンで、出来ることなら先生の本を出したい、そう思ってきたんだ、……無理かな」と。私は「そんなことないよ、チャレンジしろよ」と励ました。が、実は私には、先生の「本」を出したことがあった。
先のシリーズは、「昭和自分史 1945―49年」「昭和自分史 1950―55年」(2005年、小学館)、「わが六〇年代」「自分史最終篇」(2008・10年、岩波書店)からなるが、「わが六〇年代」219頁に、先生は次のように記された。
昭和42年、1967年、(略)1月には東北大学の集中講義に出かけた。(略)聴講生は24人ほど。はじめに、君たちはどんな問題意識をもっているかとたずねた。みんなだまっていた。25歳で自殺するまで、革命、恋、文学と、灼熱の人生を生きた北村透谷の話に学生たちは圧倒されているようだった。その中に渡辺勲君がいた。後に東大出版会の編集者となり、私の『北村透谷』を担当した。
1968年4月、私は編集助手になった、23歳だった。しばらくして編集トップから「色川の透谷を担当せよ」との命が下った。そして時は流れ、一気に、2012年10月15日、68歳の、私の日記帳に飛ぶ。
新宿駅中央線ホームで栗原氏と合流、小淵沢駅着12時58分。私たち二人は駅頭に、色川先生のお出迎えを受けた。先生は初秋の清里へとご自身運転の車でドライブして下さった。そして先生のお宅に伺ったのは午後3時25分、タップリ二時間、お話を伺い、「自分史」の基礎資料でもある厖大な日記帳群に驚嘆し、感激した。翌日、私は先生に御礼メールを打った、「(前略)先生の八七歳にして、生かされているのではなく、自分で生きているのだ、というお言葉に、言い知れぬ感動を覚えました」と。
栗原氏の、先生宅訪問の目的は、先生が後に新著『時評論集 新世紀なれど光は見えず』の「はじめに」で「この書を、前著『歴史論集 近代の光と闇』『人物論集 めぐりあったひとびと』と合わせて三部作と位置づけたい」とされたその企画編集にあったのだが、この小淵沢詣を機に先生と栗原氏との縁は深く強くなり、「三部作」の完成に至るのである。
話は脇道に逸れるが、東大退官後「歴史民俗博物館」準備室長(そして初代館長)をされていた時代の井上光貞先生の話をさせてもらう。私は1978~9年のことだが、足繁く広尾や葉山のお宅に通ったことがあった。先生はお仕事の合間に、真剣なお顔で、「歴博企画展示の構想立案だがね、僕は、民俗部門は網野君に、近現代は色川君に任せたいのだがね、君、どう思う」と言われた。もちろん私などにまともな返事が出来るはずもないが「凄いご構想ですね」と申し上げた記憶は、鮮明に残っている。さて、色川先生の話に戻るが、先生は「自分史最終篇」第2章に50頁に及ぶ「『歴博』を創るたたかい」を書いておられる。実は私は、網野先生とも親しくしていたのだが、ある時、この話をしてみた。先生は「神奈川大学常民文化研究所の手が抜けないからね、固辞したよ」と言われた。色川先生の「網野善彦と『網野史学』」(三部作「歴史論集」所収)に私は、両先生の目には見えない強い絆を感じた。同書225頁には、若き日の両先生の写真(1947年11月)が収められている。
色川先生に捧げるこの拙文を、『只、意志あらば』(日本経済評論社、2010年)の著者にしてわが友、後藤守彦氏の「皇后と憲法」(『札幌民主文学通信』2014年11月)からの引用で締め括りたい。
私は、仙台の大学で色川大吉の集中講義を受けた。大学時代における最高の講義であった。その時の感動を今も忘れることはできない。(略)特に、夭折した北村透谷の政治的挫折と苦悩についての、哀惜の思いが伝わってくる語りは印象深いものだった。
色川先生は、私たちの世代に「自分で生きる」ことを教えてくださった。先生の生き方は、三部作最新刊『時評論集 新世紀なれど光は見えず』巻末資料にも、実に見事に表現されている。
[わたなべ いさお/元東大出版会、一路舎]