先生と私

青地 正史

私にとって先生といえば、下谷政弘というお方であるが、私の研究者としての出発が遅かったために、先生と私の年齢差はわずか五歳にすぎない。普通はこのような師弟関係は、ありえないのではないか。しかし長く学恩を受けた者の一人として、私が私なりに身近に見てきた、もしかしたらご本人でも気づかれぬ下谷政弘像について以下に述べることにしよう。 第一に下谷先生に特徴的なのは、言語への熱い想い入れである。興に乗るとさまざまな言葉について蘊蓄を傾けられたが、ご自身も愉しげであり、それは聞く者に深い教養を感じさせた。最近そのような傾向は速記から来たと書いておられる(「評論」195号、2014年4月)が、私にはいささか牽強付会に思われる。言葉の持つ味わいや豊かさが、先生をして捉えて離さないのであろう。あるいは言語への接近が、先生にとっては最高の知的コミットメントなのであろう。私は「舎密局」がchemistryに由来するという話がなぜか印象に残っている。また馬場宏二『会社という言葉』(大東文化大学経営研究所、2001年)は名著であると、さながら自分に言い聞かせるように何度も語っておられたことや、経済学部の隣にある文学部にも足繁く通っておられたことも、周囲の者なら皆が憶えていることだろう。  それが今回『経済学用語考』(日本経済評論社、2014年)という書物となって結実したことは、弟子として誠にうれしい。この書物を通して、要するに先生は「言葉は歴史と共にある」といいたいのだと思う。 第一章は割愛するとして第二章では、明治前期に日本に取り入れられたイギリスの自由主義経済学に対し、従来の経世済民のイメージから区別し新味を出そうとして「理財学」という言葉が考案され一時使用されたが、明治中期に広まったドイツの国家主義的経済学にはふさわしくないとして、結局近世以来の「経済学」という用語に落ち着いたと述べておられる、と私は読んだ。 第三章では、「産業」の三分類はともかくとして、それに関わったペティとクラークの関係をよく理解することができた。 第四章では、重工業や化学工業の興隆を背景として1950年ごろから「重化学工業」という合成語が雑誌などで見られるようになったが、それは『経済白書』の昭和26・27年度版などで使われ不動のものになったと主張しておられる。ちなみに同章の一五四頁六行目において「この1949年というのは朝鮮戦争が勃発した年である」とされているが、朝鮮戦争の勃発は正しくは1950年6月のことである。大学者でもこういうことがあるのかと、かえって安心させられた。 第五章では、ドイツにおける本来の「コンツェルン」の用語は同一産業における親子型の企業グループを意味し、日本ではこの種のものは1930年代に新興コンツェルンを代表として登場したが、三大財閥のような産業横断的な組織までも間違っていっしょにこう呼ばれるようになったという。われわれにはお馴染みの企業グループ論をまた聞くことができた。こうして下谷経済学の第二の特徴は、もっぱら組織論を切り口としていることである。そのような書物の中で、私は『日本の系列と企業グループ』(有斐閣、1993年)が一番好きである。何度も推敲を重ねた跡が窺え、全体が実にすっきりとまとまっている。 「おわりに」において、先生は「経済学と素人国語学のハイブリッドなものとなった」と本書の性格について振り返っておられる。私は同旨の文章が和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波書店、1919年)にもあったことを思い出した。こうした専門と非専門にわたる書物は、大胆なことが書け読んで面白く、したがって出版物としてもよく売れるのであろう。 ただ本書にとり上げられた経済用語はごく少数の限られたものにとどまり、もっとさまざまな言葉について語ってほしかった。「景気」という言葉について、私はある偉い人の講演で怪しい説明を聞いた。その景気や、また「植民地」、「先物取引」(先約取引というなら分かるが)や「社会主義」などの由来についても是非教えてほしい。 最近は言葉にとって危機的な時代であるとつくづく思う。かつては衆議院議員の選挙を「総選挙」、参議院議員の選挙を「通常選挙」と呼んだが、21世紀のある時期からNHKともあろうものがニュースで前者をAKBの人気投票の意味にも平気で使うようになってしまった。まさに「言葉は時代と共にある」を感じさせる出来事であるが、実に嘆かわしい。 [あおち まさふみ/富山大学経済学部教授]