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「共生」の裏に隠された仕掛けを見抜く   ──『「多文化共生」を問い直す』の出版にあたって

斎藤 文彦

今回、日本経済評論社から、『「多文化共生」を問い直す─グローバル化時代の可能性と限界』を刊行することができた。本書は2010年から二年度にわたって、龍谷大学の研究助成を得て実施された研究会の成果である。この共同研究では、龍谷大学国際文化学部の教員が主体となって、幾度となく研究会を開催した。学外では、2009年に開催された日本国際文化学会の第8回全国大会、ならびに翌年の第9回全国大会においても、共通論題の場を連続して設定し、それらの場において活発な議論を展開することができた。 研究発足当初、われわれの問題意識はまだ漠然としていた。現代の世界は、ヒト・モノ・カネ・情報などのさまざまなグローバル化に直面している。その結果、国家・個人・文化といった次元での相互交流が急速に進展している。他方、われわれは地球環境の危機をはじめ、各地における民族紛争の勃発や、移民を含むアイデンティティーの変容など、各種の困難な課題を生み出している。これらの課題に対するより望ましい状況を示す用語として、国家間の平和共存を示唆する「国際共生」や、異文化間において摩擦が起きない状況を暗示する「多文化共生」というように、「共生」という表現が使われることが多い。 しかし、このようにさまざまな意味で用いられる「共生」概念であるが、これを批判的に検討することが必要なのではないか。そして、少し文献を調べていくと、そのような批判的検討が最近まで比較的少なかったことがわかった。本書は、「共生」概念の再検討を、現代世界の諸課題の原因解明とその解決方法を通じて明らかにしようと試みた。 刊行を終えて改めて思い返すと、今日、われわれが接するニュースは暗いものが実に多い。ロシアと欧米が相互に批判の度合いを高めてはいるが、根本的解決が見えてこないウクライナ問題。一方世界一裕福なアメリカはというと、歴代で初めて黒人の大統領が誕生したにもかかわらず、人種間の融和にはほど遠く、つい最近も南部で起きた黒人少年への警察の対応を巡って社会的混乱に苦悩している。中東では、西側からイスラム過激派というレッテルを貼られているが、シリアで戦えば国際的英雄となり、イラクで同じことをすると非難される武装集団、などなどである。このような一連の事件を見ていると、われわれは本当に21世紀に生きているのかとの疑念さえ生じる。なぜ人々は思想や宗教や民族が異なっても平和に共存できないのか、との嘆きが漏れても不思議ではないであろう。 本書はまさにこれら一連の課題に共通する「共生」という考え方を批判的に取り上げた。お読みいただければ、本書を通じて「共生」に関するさまざまな問題点が浮かび上がってきたことを読者は実感されるであろう。 「共生」という響きの良い言葉とはうらはらに、往々にして実際の共生の政策は、社会の中の弱い立場にある人々──移民や、少数民族や、女性や、経済的困窮者など──の主体性を軽視し、多数派の都合を押しつける傾向が強いことが明確になった。 無論このことは、「共生」という考え方は矛盾に満ちているので、理想的すぎる「共生」などは断念すべきである、などと主張しているのではない。グローバル化がますます進展する今日の世界において、相対的に影響力の弱い文化の存続をどのようにして確保するのか、また、一層多様化する価値観のなかで、どうすれば自己の独自性とまわりへの協調性を同時に確保できるのかなど、現代の世界は実に多くの課題に直面している。 本書の基本的メッセージは、「共生」という一見理想的にみえるスローガンの裏に隠されている巧妙な仕掛けを見抜き、多数派の思惑だけがまかり通るのではなく、さまざまな意味で弱い立場にある人々の主体性が尊重される仕組みを考えていく必要性である。いわば、安易に「共生」を用いることの危険性を見抜き、そこからこぼれ落ちる人々に寄り添うわれわれ自身の生き方の模索ともいえるかもしれない。これは言うは易く行うは難しい作業であるが、現在の世界においては、このような冷静な対応が今後一層求められるであろう。 [さいとう ふみひこ/龍谷大学国際文化学部教授]