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  • PR誌『評論』197号:木村礎研究と明治大学史資料センター

木村礎研究と明治大学史資料センター

山泉 進

明治大学史資料センターの編集で『木村礎研究』を日本経済評論社より刊行した。資料センターの編集した本としては、『尾佐竹猛研究』(2007年)、『布施辰治研究』(2010年)、『三木武夫研究』(2011年)に続く第4冊目の著作である。別に、明確に意図して刊行を始めたわけではないが、資料センターとしては「研究叢書」の一つと考えている。明治大学史資料センターは、『明治大学百年史』の刊行を目的としてつくられた「明治大学百年史編纂委員会」の仕事を引継いで、2003年から現在の名称になっている。木村礎は、1985年に「百年史編纂委員会」の委員長に就任して、『明治大学百年史』(全四巻、1986~1994年)刊行に尽力した。そういう関係からいえば木村礎は大学史資料センターの生みの親ということになる。本書のなかでも「木村礎と大学史」をテーマとした論考を収録している。 現在、大学も少子化とグローバル化という大きな波のなかで、国内外の大学間競争の嵐にさらされている。そこで問題になっているのは、競争に勝つため、あるいは生き延びていくための大学の「個性化」という課題である。古い大学は伝統を再発見し、新しい大学は現代の社会的ニーズをアピールするという具合である。明治大学は、1881(明治14)年に創立されているので、130年以上の歴史をもつ比較的に古い大学に属している。したがって、伝統を再発見することが求められている。大正後期につくられた校歌に謳われている「権利自由・独立自治」という建学の理念は、現在では「個を強くする大学」というキャッチコピーへと置き換えられた。研究の分野では、「駿台学」の発見という目標をたてている。「駿台」は、もちろん地名としての東京千代田区にある「駿河台」の略称であるが、1886(明治19)年、有楽町から駿河台に移転してきて以来、この地に大学の中心的キャンパスをおいてきたことから、いわば苦し紛れに命名した造語である。学問が普遍性をめざす以上、別に「明治大学の学問」というようなものがあるわけではないが、それでも、長い歴史を発掘してみれば、ある種の個性的な学問研究をした人物や社会的活動をした人物たちの顔が浮かんでくる。そういう人物たちについての研究を、ちょっと「駿台学」と呼んでみようと思いついたに過ぎない。 各大学の「個性化」のための資料調査や年史の刊行、あるいは関係資料の保存や公開を目的とするアーカイヴス機能の充実、それが大学史資料センターに課せられている一般的な課題である。くわえて、明治大学の大学史資料センターは、教育や研究活動に力をいれようとしているところに特色がある。教育活動としては四つのキャンパスで「明治大学の歴史」という学部間共通科目を展開している。新入生を対象にして所属する大学や学部の歴史を講義し、高校から大学への所属意識の移行をスムーズにおこなえるように役立てるようにしている。また、研究活動の場としては、センター内に共同研究のプロジェクトを設置している。センター運営委員を中心にして、現在は、「創立者研究会」「人権派弁護士研究会」「アジア留学生研究会」「財界人研究会」「昭和歌謡史研究会」の五つが設置されている。また、そこでの成果は、年二回刊行する『大学史紀要』に発表するようにしている。実は、『木村礎研究』も、ご遺族から寄贈された蔵書やノート・資料類の整理・研究を目的として、2007年から活動を開始した「木村礎研究会」の5年半にわたる研究活動をベースにして刊行された。 木村礎は、本書のサブタイトル「戦後歴史学への挑戦」とあるように、日本の地方史、とりわけ村落史の研究者として、つまり日本歴史学の分野においては知られた人物である。1924(大正13)年、現在の江戸川区小松川に生れ、国民学校の代用教員を務めたあと、明治大学専門部に入学、1945年に軍隊に入営、東京大空襲で自宅を焼失、父の死、そして敗戦と卒業。1947年東京文理科大学に再入学、学生身分のままで明治大学文学部助手となり、1963年文学部教授、1977年文学部長、1988年から学長をつとめ、1994年70歳で定年退職、2004年に亡くなった。その間、大学外でも、関東にある自治体の地域史編纂に従事し、地方史研究協議会に中心的にかかわり、また日本学術会議会員として「歴史資料保存法」の制定についての勧告をおこなったことなどでも知られている。彼の学問的業績は、「木村礎著作集」(全11巻)として名著出版から刊行されている。本書でも「略年譜」を付して、木村礎の経歴と著書を紹介した。また、「関係文献目録」として木村礎の著作についての1950年以後の書評等の目録を掲載しておいた。 もちろん、本書は木村礎の本業であった近世の村落史研究に関係する論考を中心にして構成していることは当然であるが、私は大学史資料センター長としての立場から、「明治大学という大きな〈村〉を歩いた一教員の軌跡」と題して、主として大学行政職者としての木村礎の足跡を書いてみた。木村礎が学長であった1988年からの4年間、ちょうど世界的にはベルリンの壁の崩壊、天安門事件、ソ連の解体など激動の時代であった。明治大学は、代人受験や学生自治活動の問題などで大揺れにゆれた。当時の明治大学は、理事長・総長・学長という三長制をとっていて、学長の権限は大学経営面においても十分ではなく、かつ各学部教授会との関係においてもリーダーシップをとって改革をおこなえるような状態にはなかった。私は学生部委員として比較的間近に木村学長をみる機会があったが、明治大学は慣行が支配する幕藩体制の組織であって、とても近代国家の体をなしていないことを嘆いていた。そして、時折みせた寂しそうな後ろ姿を忘れることができない。それから、20年以上が過ぎて、現在の明治大学は、男女の受験生からは「最も入りたい大学」の一位に評価されるまでになった。その学内での改革は一様に語ることはできないにしても、少なくとも私にとっては、あの木村学長の寂しそうな後ろ姿が原点にあったことは確かである。 木村学長時代におきた「社会主義」の崩壊は、戦後のマルクス主義概念を中心にして構成された歴史研究にたいして決定的な打撃を与えた。木村史学が探求したものが、一貫して、生きてきた人々の実像からの歴史研究の再構築にあったとしたら、いまこそ、その「挑戦」の意義について考える機会である。 [やまいずみ すすむ/明治大学教授・大学史資料センター所長]