農業経営学の現在

内山 智裕

我が国の農業をめぐる環境がますます厳しさを増す中、農業の活力創造に向けた方策が様々な主体から提起されている。農業の三大要素である土地・人・資本がいずれも危機的状況にあり、抜本的な対策が必要であることは、改めて論ずるまでもない。
ところで、これらの方策の中でも象徴的なキーワードに、「攻め」「輸出」「商・工・福・医などとの連携」「企業参入」「六次産業化」などがある。既存の農業関係者の努力のみでは活力創造はもはや達成困難であり、農外関係者の「導入」・「連携」等により、農業のあり方を大きく変えれば、我が国の農業は他産業と同様の国際競争力を持ちうるとの主張である。
農業経営学とは、現実の農業経営が持続・発展していくために短期的・長期的にどのような対応をとるべきかを考察する学問である。農業経営を人体に例えれば、これまでの農業経営学は、補助金支給等の「内科的治療」による効果(と副作用)、農業の生産過程・流通過程といった「各臓器」や経営者という人体全体を統括する「頭脳」のメカニズムの分析、といった形で展開されてきた。企業の農業参入は「外科的治療(臓器移植)」に例えることもできよう。我が国の農業および農業経営が「不健康」であるとの前提に立てば、これらは取り組まれるべくして取り組まれてきたといえる。しかし、そこに欠けていたのは、より「健康」になり、もてる能力を最大限発揮するためのトレーニングの視点である。
現在の農業界において、高い潜在能力をもちながら、それが発揮されていない者・組織はいないだろうか。そこで注目されるのは、農業就業人口の約半分を占める女性である。
農業とは男性の世界であり、女性は補助的役割を担うに過ぎないとの言説は、もはや古典である。六次産業化に代表される昨今の農業経営の多角化・高度化は、女性の貢献をますます必要としている。女性の側からすれば、農業には女性の活躍の場が広がっている。
農業は立ち遅れた産業であり、他産業のノウハウを導入すればおのずと近代化されるという理解は、ほぼ誤解であるといってよい。企業参入=臓器移植も一つの切り札ではあるが、女性の参画=潜在能力の具現化も、勝るとも劣らない切り札なのである。
農業経営の成長には、時宜を得た事業戦略と適切な経営管理が不可欠である。管理の対象には、直接扱うことのできる経営資源のみならず、地域環境、消費者からの信頼などが含まれる。社会的責任と言い換えることもできよう。これは農業に限らず重要であるが、農業の固有性を挙げるとすれば、天候等に左右され、経営戦略・経営管理に費やした努力よりも、天候等の与件に利益が左右される点である。
我が国の農業に多額の血税が投入されてきたこと、また我が国の財政がひっ迫していることは周知の事実である。農業への血税投入の根拠は、農業の収益性の低さと農業の果たす公益的・多面的機能にあった。しかし、「儲からないから支援する」論理はもはや通用せず、農業であれば全て公益的・多面的ともいえない。血税は社会的責任を果たす経営にこそ投入されるべきである。
例えば、「食の安全・安心」は消費者ニーズを端的に表している。一方、我が国に限らず、先進国全般において、家族経営が農業の根幹を担っている。ここで、消費者の安全・安心ニーズを満たすために家族経営が行うべきことは、化学農薬を使用しない有機農産物の提供かもしれない。しかし、それで事足りるのだろうか? その農業家族にドメスティック・バイオレンスがあっても構わないのだろうか? 今日の農業経営に求められる社会的責任は広く深い。それを実現する経営管理を指し示す責務が農業経営学にある。
この度上梓された『農業経営学の現代的眺望』は、これらの諸点、すなわち国際競争や地球環境などの「外部環境」、我が国のみならず、他の先進諸国や開発途上国における「経営主体」、生産・販売・雇用・財務から社会的責任に至る「経営管理」、さらに「六次産業化」をキーワードとして、農業経営学の新たな地平を切り開くことを企図している。
[うちやま ともひろ/三重大学]