民主主義的資本主義のゆくえ

宮本 太郎

民主主義をとりあえず、自由な選挙による政治代表の選出制度と考えるならば、形式上は今日ほど民主主義の制度が各国に広がり政治を強く方向づけている時代はなかった。にもかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、日本をはじめ多くの国で、民主主義の制度は空洞化の度合いを高め、「ポスト民主主義」という言葉も聞こえてくるようになった。
憲法に関わるような重要なイッシューほど制度の外部で決定される傾向が強まり、メディアなどを通したポピュリズム的な操作も日常化する。民主主義をとおして権力を失うことを経験した政治家たちは、こうした手練手管に汲汲として、統治の営為は民主主義の理念から遠ざかっていく。有権者の側もまた、こうした手練手管を見透かすことで、あるいは政権選択の結果に失望することで、民主主義の制度に対する不信を強める。投票率など政治参加は全体としては衰退するが、「穏健」な投票行動が抜け落ちる分、投票をとおして表明される意志は「先鋭」化していく。
民主主義が難問山積の制度であるというのは、今に始まった議論ではない。民主主義は暴走しやすい制度でもある。伝統社会の王権や貴族制には、自ずと従うべきコードが存在したのに対して、自由選挙で選出された権力は、時には無制約な委任を受けたと強弁する。民主主義の自己正当化の論理には、為政者に立憲主義を尊重する態度が欠落している場合、「選挙独裁」を生み出す可能性が内在しているのである。
民主主義への失望が広がり、政治参加が衰退する。それゆえに民主主義の制度がたどり着く選択がなおのことエキセントリックなものになる。このような悪循環が広がる背景は何か。
日本を含めて各国の政治経済は、民主主義的資本主義democratic capitalismとして成立している。民主主義という政治制度と資本主義という経済制度は、相互間に強い緊張を孕んでいる。資本主義の論理からすると、民主主義の制度をとおして、大衆の平等への強い要求が噴出し、市場原理への政治的介入が広がるならば、資本主義の制度は機能的に麻痺しかねない。ゆえに後期のF・ハイエクは、「競争はつねに、少数者が多数者に多数者の好まぬことをするよう余儀なくさせる過程である」と述べて、現代民主主義の諸制度を抑制することを説いた。
他方で、市場経済のもとで広がる格差や貧困、あるいは長時間労働は、それ自体が政治に関わる時間・資源・知識を十分に備える少数の人々と、その条件を全く欠く多くの人々を分化させ、民主主義の条件を掘り崩す。ゆえにかつてレーニンは、民主主義を徹底すると標榜して、プロレタリアート独裁によって一時的に資本所有者の権利を棚上げにして、資本主義の根本改革をすすめることを説いた。
こうした民主主義的資本主義の矛盾は、20世紀の半ば以降からは、福祉資本主義welfare capitalism の構築によって暫定的な解決を見てきた。ここで福祉資本主義とは、まず資本主義の制度について、社会保険や社会的手当、公的扶助などの再分配re-distributionと労使交渉、共同決定、公共事業、金融政策など当初分配pre-distributionの双方において修正を加え、貧困と格差を抑制し、労働者階級の統治に関わる時間や能力が形成される条件を確保する、というものである。このことは、民主主義の制度からすると、政治的民主主義を、再分配に関わる社会的民主主義、当初分配に関わる経済的民主主義へと深化させていくことを意味した。
民主主義と資本主義の均衡をつなぎとめてきたこの福祉資本主義の解体こそ、「ポスト民主主義」状況の背景である。福祉資本主義の解体は、まずは市場経済がこれまでの福祉資本主義の単位であった国民国家を越えてグローバルに拡張し、TPP協定問題に見られるように、ナショナルな民主主義の無力さが際だってきたことに由来する。
しかも同時に、このグローバルな市場経済の形成をも一つの背景として、雇用や家族の揺らぎがすすみ、各国で若者たちが雇用や家族から排除される事態が広がっている。これまでの福祉資本主義の制度は、G・エスピン─アンデルセンに倣って言えば、雇用関係からの自律を可能にする「脱商品化」、家父長制家族からとくに女性の自由を拡げる「脱家族化」をすすめることを目指してきた。ところがこの20世紀型の制度は、そもそも雇用に就けず、家族すらもてなくなっている若者たちの生活実態から明らかにずれてしまっている。
ナショナルな民主主義の諸制度が決定能力を失い、福祉資本主義の諸制度が若い世代の生活危機に対応できなくなっている。広がる有権者のいらだちを前に、ポピュリズム的な操作に傾く政治家たちは、洋の東西を問わず一様に、強い政治の実現を掲げる。機能不全に陥った民主主義的手続きをスキップして、有権者の声に直接応えるというわけである。若い世代の生活危機をめぐっては、不安定な雇用や家族を越えた観念的な帰属先としての国家が打ち出される。
一国単位の福祉資本主義の解体を受け止めつつ、民主主義をよみがえらせる道筋はあるのであろうか。民主主義自体のグローバル化を唱える向きもあるが、その前に、ナショナルというよりもローカルな場で、若い世代の生活危機の改善に民主主義を機能させることが大切である。雇用や保育をめぐる改革がすすみ、若い世代に、ささやかなものでも守るべき生活ができて、自らの生活の維持と向上のために対話、協議、決定が役に立ったという経験が広がれば、民主主義が機能する基盤となる。すくなくとも、民主主義が仮想敵へのフラストレーションを表出する疑似メディアに転化することは抑制されよう。そしてさらにその先に、私たちは、これまでと空間構成や制度構造を異にした、新しい福祉資本主義のかたちを展望していく必要がある。
[みやもと たろう/中央大学法学部教授]