• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』195号:三行半研究余滴⑩ 最古、寛文七年の三くだり半

三行半研究余滴⑩ 最古、寛文七年の三くだり半

髙木 侃

今回紹介する三くだり半は筆者所蔵のものではない。所蔵者は山梨県甲府市の望月秀典氏である。氏が楠甫村(現西八代郡市川三郷町)の村役人資料として一括購入したもののなかにあった一点であるという。年号が寛文七(1667)年で、これの調査にあたった東京女子大高橋修准教授から問い合わせをいただいた。内容が特異であり、果たして三くだり半といいうるのかと。 まず、その文書の写真と釈文(解読文)を掲げた。用紙はタテ二七・三センチ、ヨコ三八・三センチであるが、文書の左四分の一は余白で、その部分はカットしてある。端裏(文書をたたんだときの隅の部分)に「名主弥兵衛」とある。本文は以下の通り。 一今度我等ふうふと出入申候処 お名々御扱ニて相済申候上ハ、以 来我等いやニておい出し申候は金 弐分いとまに出し可申候、女いや ニて御座候は、かまいなく罷出 可候、為後日名々へ手形進申候、以上  寛文七年   くすほ  未ノ九月六日  次兵衛㊞         同          内 儀(拇印)    甚左衛門殿    酉兵衛殿    豊兵衛殿    義兵衛殿    伊兵衛殿    喜左衛門殿 本文の現代語訳はこうであろう。 今度、私ども夫婦にいさかいがあり、離縁にもなるべきところ、名宛の皆様の取り扱いで内済(示談)になりました。もしこの後、夫次兵衛が妻を嫌いになって離婚請求のときは慰謝料「金二分」を出し、女房の方が嫌で離婚のときは、持参荷物などに構わず(何も持たずに)出て行くことにする。後日のため、以上の通り皆様に証文を進上いたします。 この文書は離婚紛争が示談で解決したときの復縁(当時は帰縁といった)和解証文である。そのなかに、今後離婚するとき、夫が離婚請求するか、女房の方から求めるかによって、離婚条件を明記した。結局のところ、復縁したものの、再度離婚紛争になった時のために離婚条件を記して、後腐れなく離婚するためにあらかじめしたためた証文で、「帰縁証文兼先渡し離縁状」である。しかもこの時期、離縁状の書式が整っていたとはいえず、夫婦がそろって署名捺印していることは、夫婦が対等の関係であったことを意味するのではなかろうか。また甲州では、庶民の結婚・離婚に仲人等が介入することを支配の藩で命じたこともあったので、ここでの名宛人六名は、仲人や世話人であり、その上で端裏に書かれた名主弥兵衛に、この証文が預けられたものと考えられる。 ところで、これまで最古の離縁状としては私所蔵の元禄九(1696)年、表題「かまい無御座候手間状之事」とある五行の離縁状であった。南アルプス市(旧落合村)のもので、関連文書によって、女房を他男の妾として譲ったのであった。当時小さな町(人口14000人余)のささやかな資料館の館長だった筆者は、館の広報と知名度をあげるためメディアの協力が欠かせなかった。これを紹介した拙著を山梨日日新聞文化部に送った。直ちに一面にカラーで離縁状が紹介され、社会面で九段抜きの記事になった。続いて共同通信の取材・配信で、日経・産経、各スポーツ紙などに載った。 その後、2008年に福井県で貞享三(1686)年、三行半の離縁状が発見された。ただし、印章の部分に「判」と書かれてあり、写しであって、原物ではなかった。これも各メディアに取り上げられた。 今度のものも、懐かしい「山日」が紹介してくれた。今年3月7日のことで、記事の最後は「経済力のある女性は実家に戻っても再婚相手を見つけやすく、妻側が離婚を求めるケースもあった。形式的には夫側が離縁状を出すため、男性優位なイメージが定着しているが、実際は双方が話し合って離縁を決めていたと考えるべきだ」という、私のコメントで終えている。 [たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長・比較家族史学会会長]