『住空間の経済史』刊行に際して

小野 浩

私が熊本市に移り住んで3年が経つ。先日、市内にある夏目漱石の坪井旧居を訪れた。この木造家屋は、英語教師として第五高等学校に赴任した漱石が、五番目に住んだ庭付き一戸建ての借家である。明治期の中流住宅の姿を今に伝える貴重な遺構である(現存の洋間はのちに増築されたものである)。 漱石は4年余りの熊本滞在中に、6回も住居を変えた。これほど頻繁な転居が可能であったのは、明治期の都市住宅ストックの大部分が借家であったからである。一口に借家と言っても、粗末な棟割長屋や裏長屋から百坪以上の建坪と数百坪の敷地を有する邸宅まで、多種多様な型が存在した。 晩年の漱石の住居は敷地300坪、家賃35円の借家であったが「私は家を建てる事が一生の目的でも何でも無いが、やがて金でも出来るなら、家を作つて見たい」(『漱石全集』25巻、岩波書店、1996年)と語っている。 大正期以降も、都市住宅の中心は借家であった。この頃の都市住民の転居について「無暗に引越をする……大抵は12年、短くは数ヶ月の内に」という言説がある(『読売新聞』1919年6月14日付)。これが本当ならば、熊本時代の漱石が格段の引越魔であったとは一概に言えない。 1910年代後半の量的住宅難の深刻化とともに、引越しは次第に「贅沢」とみなされるようになった。最も深刻な打撃を受けたのは、都市への転入者である。転入者の最初の仮住まいとして、木賃宿や下宿屋が重要な役割を果たした。彼らは就職や結婚を契機に借間(素人下宿)や借家に転居していく。 江戸川乱歩の探偵小説に登場する明智小五郎の居住履歴をたどると、高等遊民時代の青年明智は煙草屋の二階の四畳半に間借りしていたが、のちに御茶ノ水の「開化アパート」に事務所兼住居を移した。「開化アパート」のモデルは、おそらく森本厚吉が1925年に建設した「文化アパート」である。各種設備が完備された米国直輸入式の「文化アパート」は家賃が極めて高額であり、同時代の借家市場のなかで異質な存在であった。なお、同じRC造でも、和洋折衷の同潤会アパートは広く市民に受け入れられた。結婚後、明智は麻布の西洋館に転居した。 煙草屋の二階からスタートし「開化アパート」を経て西洋館へと駒を進める明智の「すごろく」は、虚構ゆえに成り立つ話である。キャラクタを含めて当初は現実的な設定であったが、後年は現実離れした。実在の人物を例に挙げよう。太宰治は1930年に上京してから、戸塚の下宿屋、五反田の借家、日本橋の材木屋の二階、白金三光町の大きい空家の離れの一室、天沼のアパート等、多様な「大東京」の住空間を転々と移り住み、最後は三鷹の家に落ち着いた(「東京八景」)。太宰の経歴は極めて異色であるが、居住履歴には現実感がある。 営業下宿・借間等を含めて、当該期の都市の住まいの大部分は、家族が一生暮らすための「マイホーム」ではなく、投資商品として、他面、仮住まいとして存在している。経済状況や震災により借家市場の構造的矛盾が増幅され、これを克服するために需要者自身の能動的な活動が展開していく。 一戸を構えることが困難な低所得層が都市で世帯を形成するにあたり、一住戸=複数世帯がその条件の一つであった。ただし、それは「雑居」ではなく「同居」である。居住の独立性は高くないが、一定の秩序が存在している。ゆえに、利回りに規定されるハコとしての住戸(借家)のみならず、多様な住空間が創出され、重層的な市場が成立する。下宿屋等を含む借間市場は、1920年代から30年代にかけて、木造アパート市場へと進化した。 戦後復興期、高度成長期を経て、住宅の構造、世帯の構成、生活水準、ライフコース等が大きく変化した。都市における一住戸=一世帯が達成され、郊外一戸建て持家をアガリとする「すごろく」が一般化した。 現在、少子高齢化、人口減少、単身世帯の増加等が進行し、他方、空家の増加や集合住宅の老朽化等が問題化している。家族や社会の変化にあわせた柔軟で新しい住空間の構築に向けて、本書が一助になれば幸いである。     [おの ひろし/熊本学園大学准教授]