三行半研究余滴⑨ 妾の三くだり半

高木 侃

これまで連載に用いた離縁状はいずれも筆者所蔵のものである。これからも断わりのない限り筆者所蔵のもので、なるべく最近入手し、活字になっていない珍しいものを紹介しながら、その離縁状研究上の意義にふれていきたい。今回の「ふで」女に関する離縁状三通は、往来物研究の第一人者小泉吉永氏から譲り受けたものである。
時の経過をおって述べると、左頁の明治20年旧10月付けの離別壱通が古く、吉田勇右衛門から室田ふでにあてたもので、本文には「近年ヨリ拙者忍妻ニ致し居候へ共、此度都合ニ依り」離別したとあり、続いてだれと再婚しても構わないとしたためている。中郡新治村・矢田村はともに丹波国で、現在の京丹後市である。
ここには「忍妻」とあるが、筆者はこれを妾と考える。もっとも妾の離縁状の典型的な例は「私儀、其許と馴染合居候所、今般以御立入を、納得之上、手切ニ相成」などとしたためられ、「馴染」んだ女と「手切れ」することであったが、ここでは「忍妻」と表現したわけである。
ここには写真を掲げなかったが、その直後「ふで」は指田友治郎の妾になったようで、しかも、二か月もしない年の暮れ12月24日には別れることになり、また離別壱通が「ふで」宛てに書かれている。本文前半には「一、此女、私シ隠妻持来ル処、都合依て暇差出シ」とあり、友治郎は爪印を捺している。ここには「隠妻」とある。10日後の年明け、左の離縁状が再び書かれた。
用紙はタテ24.2センチ、ヨコ32.8センチであるが、半紙を半分にして、丁度その右半分に書かれている。
    離別壱通
  一此女、拙者掛合相成り候処、
都合依テ暇差出シ向後拙者置テ
死去迄差構え無之、為後日加判
可致ス、離別依て如件
         峯山泉町
          指田友治郎㊞
明治廿一年第一月四日離 斬
矢田村      矢田邑
  室田兵太郎殿   室 田 ふ で
峯山泉町も現在の京丹後市である。
本文の読み下し文はこうである。
この女、拙者掛り合いに相成り候処、都合によって暇差出し、向後拙者において死去まで差し構これなく、後日のため加判致すべく、離別よってくだんのごとし
これらの三通に見られる特徴は、いずれも三行半にしたためられていることのほか、まず「ふで」が「忍妻」・「隠妻」、つまりは妾であったこと、一両年の間に二人の男性と関係をもち、いずれも解消したことである。
妾は忍ぶもの、隠すものであり、堂々と公にする関係ではないので(戸籍の届という公示手段に頼れない)、それだけ関係解消の文書、離縁状の授受が重要であった。文書が解消の確たる証拠になったからである。とくに指田友治郎の例では、初めの離別状は爪印であったが、明治になると契約証書には印鑑が要求されたので、あらためて印章が捺されている。「加判可致」とあるのは証人の加印ではなく、本人が印を加えることを意味したのである。なお、印は朱肉をもって捺している。
もう一つの特徴は夫婦の名前を同列に書き、その間に12月のものは「斬」、1月のものは「離斬」と書き、「斬」の字の縦棒を長く引いている。夫婦の縁を切ったという呪術的な意味をもった行為である。近江・美濃国の慣行で、夫婦両名の間を本当にハサミ・剃刀で切ったり、手で破いたり、ときに夫婦名の間に筆で縦棒を引いたりしたのである。丹後国にもこの習俗が存在したことを推測せしめる。
[たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長・比較家族史学会会長]