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  • PR誌『評論』193号:『テュルゴー資本理論研究』の刊行に寄せて

『テュルゴー資本理論研究』の刊行に寄せて

中川 辰洋

『富の形成と分配に関する諸省察』は、『経済表』や『国富論』と並ぶ経済学の代表的な古典である。いずれも経済学のはじまりの姿を伝えるものでありながら、経済学の長い歴史を通じて、スミスが表向きの正統的な思想であった。これに対して、ケネーはスミスを支える先駆的な思想の一つであり、テュルゴーはケネーの思想を発展させる役割を演じたにすぎず、ともにスミスと同様に一派をなすものではない。
はたしてそうだろうか──。按ずるに、そもそもテュルゴーとは、どんな時代に、どんな活躍をした人物であったのだろうか。とくに経済学の歴史にどんな功績を残したのであろうか。そんな疑問に答えることが、本書を上梓するきっかけであった。
テュルゴーがルイ16世治下の初代財務総監として社稷の朽ち果てたフランス王国の社会改革を試みるも挫折したことは、つとに知られている。信教の自由、職人組合の廃止、税制改革、それに三部会廃止など改革メニューは「革命」という手段によって実現した。テュルゴーの改革がもしも実現していれば大惨事を避けられたかもしれない。
もっともテュルゴーの改革思想が、彼の師ヴァンサン・ド・グルネーの開明的かつ自由主義的思想に影響されたものであることは、意外と知られていない。ましてやテュルゴーの代表作に登場する経済学の最重要概念「資本」とその所有者「資本家」が、グルネーの主張を継承・発展させたものであることを知る研究者は、この国ではほとんど皆無といっていい。テュルゴーの経済学の古典形成への最大の貢献は、グルネー譲りの「新しい富の概念」としての資本を軸に商業社会の経済関係の組織的解明を行ったところにある。
およそ思想とは、それが政治思想、経済思想であれ、ある歴史的状況における政治的・経済的現実を映し解決を求めている課題に、既存の考えや意見に満足せずに応えるかたちで形成されるものであろう。そうであるとすれば、思想の中身をそれ自体として捉え、その価値や意義を正当に評価するためには、それがどんな現実的課題の解決を目指し、先行する諸思想の不備・欠陥をどんなふうにして克服するのかという問いへの配慮が必要不可欠となる。
その意味からすれば、近代商業社会ないし市場経済社会の新しい富の概念「資本」が社会的な富の形成と分配(生産と交換)の主要な担い手であることを明らかにしたテュルゴーの資本理論はまことにもって斬新かつ革新的であった。スミスをはじめ後世の経済学研究はなべてテュルゴー理論のお蔭をこうむっているといっても決して誇張ではない。
アントニー・ブリュワーの「古典経済学のパイオニア」、ジル・ドスタデールの「資本主義の理論家」としてのテュルゴーとは言い得て妙である。換言すれば、テュルゴーはケネー学説の完成者でも、スミス学説を準備した先駆的研究者でもない。テュルゴーこそは資本理論によって経済分析に新しい境地を切り拓いた研究者であった。本書を『テュルゴー資本理論研究』と題した一半の理由がここにある。
もちろん、「資本」理論はテュルゴー一人の手柄ではない。彼の師グルネーの着想を継承・発展させたものである。そして、そのグルネーはといえば、サー・ジョサイア・チャイルドの『新商業講話』の議論を吟味・検討して資本理論の原型を生み出したことは、いまでは周知の事実である。
筆者はテュルゴーの経済思想に論及するさい、可能な限り彼自身の口をして語らしめることに意を砕いた。彼の代表作『諸省察』のほか、経済問題を扱った小品や書簡類を三〇本程用いたのも、そのためである。そうでもなければ、テュルゴー理論の研究などと言えたものではないだろう。
もとより、筆者の試みが前例のない冒険であることは十分に承知している。筆者の意がどこまで貫かれているか──いささか心もとない。だがその判断は、いまとなっては読者兄姉の手にゆだねるほかにあるまい。
[なかがわ たつひろ/青山学院大学]