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三行半研究余滴7 夫の書く三くだり半の内容に妻は異議を唱えることができたか

高木 侃

今回の離縁状には関連文書があり、結婚から離婚にいたる経緯がわかる。
まず離縁状であるが、これは下案(下書き)で、あらためて書き直して交付したに違いない。その離縁状の写真と釈文(解読文)を以下に掲げる。大きさはタテ15・0、ヨコ9・5センチと小さく、メモといえる。
  差出申離別一札之事
其元義、対此方不和合ニ付、今般
離別致候所相違無之候、自今
対其許差構候義も無之候、
依之離縁一札入置申所如件
下書のか、差出人・名宛人、それに日付もなく、行数も三行半ではなく四行である。
本文の読み下しはつぎの通り。
そこもと義、この方に対し不和合につき、今般離別致しところ相違これなく候、自今そこもとに対し、差し構え候義少しもこれなく候、これにより離縁一札入れ置き申すところくだんのごとし
離縁状には三通の附属文書がある。
嘉永5(1852)年12月24日付の、結婚にあたっての「送り一札」がある。これによれば、武蔵国旙羅郡下奈良村(現埼玉県熊谷市)庄兵衛後家娘「かめ」は村内の名主吉右衛門拾子門助23歳を婿に迎えた。送り一札の上包みの裏に離婚にいたる経緯が書かれている。「かめ」は他家の下男・六蔵に「心懸」て、すること三度。6月朔日にも逃げたが、五人組三名が立入り、幾度も交渉して、ようやく7月16日に決着をみるが、わずか半年余の結婚生活であった。済方(示談)の内容は、次の通り。
金三両が離婚慰謝料。他家の下男と逃亡を繰り返した不埒の妻は夫を嫌い、妻の方から離婚を求めたはずで、「離婚請求者支払い義務の原則」に則り、妻方がこの三両を支払ったと思われるが、「庄兵衛方え縁切として受取」とあり、文字通り読めば庄兵衛(妻)方で受け取ったように見える。「より」と書くべきところ「え」と誤記したものと考えたい。
慰謝料三両のうち二分は妻方から暮れに祝いとして遣わされたもので、世話人に返し、離婚成立の16日夜、婿方では残金二両二分と持参諸道具を引き取っている。このとき離縁状もしたためて渡したが、のちの再婚に条件を付けた。写真一行目の後半部分である。
 風聞男貰候節ハ故障も可申由書入候処、御抜被下候様強て申ニ付、世ハ人方より右男ハ為貰申間敷由書付取置、離縁一札相渡申候、7月17日昼後皆済相成候事
つまり噂の男六蔵との再婚は禁止する旨書き入れてあったところ、妻方からこの文言は抜いてほしいと強いて願うので、世話人方からその旨の書付を取り置き、右文言を除いた内容の先の文面の離縁状が渡され、翌17日昼過ぎすべて解決をみる。
離婚はまたつぎに再婚を予定しているので、再婚免状とも再婚許可証ともいわれる。多くはだれと再婚しても構わないとしたためるが、なかには再婚に条件をつける夫もあり、それも有効だった。多くは夫以外の男性と悪い風聞でもあれば、かれとの再婚を禁止した。また再婚禁止の特約は、特定人との場合だけでなく、再婚の場所と期間についてつけられることもあった。
さて、妻方では、なぜ風聞の男との再婚禁止を了承し、そのことを約束した「入置申一札之事」を渡しておきながら、離縁状からはその文言を削除してほしいと願ったのであろうか。離縁状の文言の効力が他の文書のそれよりも強固だったからではなく、再婚にあたって人別送りを名主に依頼するとき、前婚解消の証明である離縁状の提示をもとめられる場合があり、そのとき先の不埒(旧悪)があからさまになることを嫌ったからと考える。いずれにしても夫の書く離縁状の内容に妻方から異議を唱えることができ、そうした事実があったのである。
[たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長・比較家族史学会会長]