神保町の窓から(抄)

▼自民党の「日本国憲法改正草案」が、昨年4月に堂々と発表され、そのあまりの率直さに、あちこちで反響を呼び、街中でも議論が起こっている。この欄でも、いつか書いたことがあるが、自民党は「押しつけられた憲法」だから「自主」で作らなければならない、と言うし、また自虐的であり「日本人の誇り」が欠けている憲法だから改正しなければならないのだと主張している。そういう認識でいたが、これは甘い受けとめ方だったと反省する。花の一日「草案」をていねいに読んでみた。「改正草案」はそんな感情的なものではなく、もっと積極的であり、日本国および日本人をどういう形のものに作り直していかねばならないかを主張する。永年の研究・討議のうえに発表された「この国に責任をもつ」第一党の自信ありげな意思表示であった。私は読みすすむうち、小さな震えを感じた。どちらかと言えば愛国者であろう私さえもが、そう感じるのである。一介の初老である。逐条の感想はとても書けない。ただ巷に暮らす、好きな本を作ってきた出版労働者という視点から舌足らずながら、言っておきたいことがある。
 とにかく、条文の全項目に手がいれられていることに、自民党の執念が伝わってくる。そして、最後のほうでびっくりした。「第10章最高法規第97条」が全文削除されているのだ。基本的人権を規定している条文である。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」これが削除された条文だが、これを削っておいて、天皇の条項では、天皇は元首であり、国旗は日章旗とし、国歌は君が代とし、これらを尊重しなければならない、と結ぶ。憲法は国の最高法規だと認めながらも、基本条項を削除し、憲法そのものの役割、言い換えれば、憲法は国家権力を統制する規定だということを忘れて「個人」の統制にまで口をだしている(第19条の2個人情報の不当取得の禁止等)。
 われらの生業、出版に関わることではどうなっているか。「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由はこれを保障する。」これだけが現行憲法の表現だが、これに余計なことを書き加えるのだ。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」と。権力が規定する公益とは何だ。公の秩序とは何だ。その基準に反していると判断されたら言論、出版は死んだも同然だ。秩序とか公益という曖昧で、どうとでも解釈できる基準を放任したら小説や教科書の「伏せ字」「墨塗り」時代の再来となるだろう。
 草案24条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。……夫婦は相互の協力により維持されなければならない。教育勅語=父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、なんか似てる。治安維持法も思い出した。その第1条にこうある。「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したる者は……」。国軍構想、集団的自衛権、第96条の改正手続き問題、ボヤボヤしているとわれわれは日一日と基本的人権を掠めとられていくように思える。戦争が始まり、人命と財産や遺産が失われていくことは悲惨なことだが、それ以前に集会、結社、信仰、言論、出版、音楽、映画などの自由が奪われることはもっと悲惨なことだ。進軍ラッパが聞こえてきた。ファシズムが街宣車にまたがり、そこの街角まできている。軍国思想の肥大化とそれを後押しする追随政党の暴発をくいとめるのは、結局、われとわれら(だけ)なのではないか。
▼NHKのドラマ『阿夷流為(アテルイ)』を観た。不勉強でアテルイという人名も初めて聞く名だった。歴史事典を調べてみた。北方征伐を企む律令国家ヤマト朝廷に抵抗する、陸奥の国(岩手県)の部族の族長。延暦21年(802)、ヤマトの軍人坂上田村麻呂に降伏、斬首される。これが年表に出てくる記事。ドラマは人々の暮らしを守り、故郷の森や水を守ろうとする族長アテルイとヤマトの戦闘と苦悩の物語。指導者とは何か。人を愛することとは何なのか。仲間とは誰なのか。家族とはどんな存在か。いろいろ考えさせられたお話でした。史伝や物語もいくつか出版されているようだ。読んでみる。
▼雨降りが続き花見をしないまま春が終わりそうだったので、無理矢理ヤスクニ神社に出かけた。そのせいで鼻声になり、今日は早退した。TVがセンバツの決勝戦をやっていた。済美高対浦和学院。済美の2年生エース安楽クンが浦和に一イニング七点も打ち込まれ、マウンドで茫然となり、やがて泣きっ面になっていった。浦和のヤツ全然容赦しない。結果17対1。敗けた済美ナインの今夜が気になった。 (吟)