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  • PR誌『評論』191号:三行半研究余滴6 大正14年の三くだり半

三行半研究余滴6 大正14年の三くだり半

髙木 侃

前回離縁状蒐集の一手段としてインターネットによる購入があることについてふれたが、今回のものはまさにネットで入手したものである。左に離縁状の写真(左頁)と釈文(解読文)を掲げる。用紙はタテ24・5センチ、ヨコ33センチで、半紙を半分に折り、丁度その右半分に書かれている。
    離縁状
一今回其許と内縁ニ有之候処、双方
 示談ノ上離縁候間、何方へ縁組候
 共、聊カ苦情等申間敷、依テ後日
 為念一札如件
林  重助
大正拾四年七月七日 立会人
大西嘉一郎
    本多しまとの
3行目に書き加え等がみられる。そのうち「為後日為念」を訂正して「後日為念」としている。一般的には「」と読むべきところであるが、ここではあえて「のため」と読むのであろう。おそらくこれを下書きにして、清書した離縁状が「しま」に渡されたものと思われる。
ところで、本離縁状は三行半に書かれ、江戸時代の離縁状と内容において左程変わったところは見られないが、特徴的なことが三つある。一は日付が大正14(1925)年であること、二は関連文書が付いていること、三は一行目に「内縁ニ」とあることである。
まず、これまで最も新しい離縁状は大正六年であったから、ここに紹介するものが最も新しいものということになる。この時期に、離縁状が必要とされたのは、これが正式な婚姻ではなく、法的公示性に頼れず、離縁状の授受が別離の唯一の証拠だったからである。
これには差出人・林重助の依頼によって作成された「公正証書遺言」がある。それによれば、林重助は「本多しま」に離縁状を渡した三日後の10月7日、「自分ノ自由意思」をもって、つぎのような内容の遺言をなした。すなわち、
一大正拾参年拾月弐日小野公証役場ニ於テ証人松岡龍吉・大西嘉一郎ノ立会ヲ以テ本多しまニ宅地壱筆、建棟四棟ヲ遺贈スル旨ノ遺言ハ、自分ノ自由意思ヲ以テ全部之レヲ取消ス
というものであった。先に「しま」に約束した土地・建物の遺贈を取り消すことにしたのである。重助は安政二(1855)年10月の生まれだったから、この時すでに71歳の年寄であった。また公正証書正本には、重助の住所の下に「針□」とあり、下の一文字は舞とも翁とも読めるが、判読不能で断定できない。とはいえ、これが針にかかわる職業か屋号とするならば、鍼灸に関連し、重助は盲目の鍼灸師だったかもしれない。いずれにしても、すでに高齢で一人暮らしは不便を来していたであろう。仲立ちする者があって、土地・建物をもらう約束で「しま」は重助の世話をする「妾」になったのではないか(遺贈の遺言から僅か9ケ月で別れた原因は定かではない)。すれば、離縁状に記載の「内縁」の語は、今日一般的に夫婦の実態をもちながら婚姻届を欠く関係を称する「内縁」に似て非なるものの、それに近似するものだったといえよう。
この離縁状には、ほかに二つの領収書が付いている。一つは公証人の領収書で、公正証書原本作成手数料4円55銭、正本2枚40銭、印紙代3銭、都合4円98銭である。もう一つは下京区高辻通東洞院東入三軒町所在の公証人役場から南へ高辻通りを渡って50メートルの距離もない、下京間之町松原上ル「魚清」の5円25銭の領収書である。おそらく証人二人に対する御礼の意味での会食代金と考えられる。手数料と御礼の食事代を合わせて10円余の費用がかかったことになる。
遺言公正証書の手数料は、法律行為の目的価格によって異なるが、土地一筆とその上の建物四棟を現在価格で5千万円とすれば、その手数料は2万9千円、大正の手数料と勘案すれば、魚清の払いはおおよそ現在の3万5千円ほどになる。
 [たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長・比較家族史学会会長]