行動する“色川史学”に向き合う

新井 勝紘

この3月9日、歴史家・色川大吉氏の講演会「現代の光と闇──3冊の本を上梓して」に出かけた。主催は「フォーラム色川」で、このグループは東京経済大学色川ゼミナールOBを中心とはしているが、「ニセ学生」が自由に出入りできたこのゼミの伝統を継いで、幅広い層によびかけて1995年に結成され、すでに18年の実績をもつ。会場は、すでに多くの聴衆が駆けつけていたが、私の顔なじみは少なく、長年の色川ファンともいえるような人びとが多く集まってきていた。
開口一番「一般公開の講演はこれが最後」といい、「時代遅れの人間が書いた本が三冊もでた」と続いた。今年7月で88歳になり、数日前にはスキー仲間が米寿のお祝いを開いてくれ、ワインで乾杯したとも。雪の多かった今冬は大いにスキーを楽しんだともいわれ、衰えていないのは足腰のみだともいわれた。久しぶりに会うことになった私などは、むしろ足腰は大丈夫だろうかと心配していたが、全くの杞憂だった。
時に身振り手振りを交えた力の入った講演だった。停滞が叫ばれている現代日本をはっきりと否定され、「今からでも遅くない」「乗り越えられる」と、鼓舞する発言が飛び出した。現代の日本にモノ申す歴史家・色川大吉ここにありと感じたのは私一人ではないだろう。実際に近著の『色川大吉歴史論集──近代の光と闇』では、憲法や宮沢賢治を論ずる一方で、「事件を総合的に捉えるべき日本の歴史家の発言がほとんど聞かれないのは淋しいことだ」と、あえてオウム真理教団や麻原彰晃をも論じている。
当日の講演のなかには、初めて聞く話もあった。戦後、東京大学を卒業したあと、学科長だった坂本太郎が示した3年間研究に残れるという好条件を蹴って、栃木の山村で中学校教員を一年続け、再度東京に出てきてからのどん底生活を語った。東京駅の八重洲口駅前で靴磨きも経験したともいう。人の顔を見ないで唾をはくように金を投げていく連中に腹立たしかったともいわれた。この時の経験が、のちの底辺の視座ともいう“色川民衆史”の原点にあるのではないかと私は思う。東京経済大学の教員に就けたのは1962年の37歳の時で、研究者としては遅いスタートだったと言われてもいた。
私自身、大学1年時に色川教授の担当する日本史の講義を受けたのは1965年であったが、『明治精神史』を今年から初めて教科書に使うと、講義初日に言われたことを記憶している。この本のためだけに作った友人の黄河書房から、自費出版として刊行されたばかりであった。その『明治精神史』をテキストにしたフレッシュな講義を一年間聴講した私は、教室を包む不思議な魅力にぐいぐいと引き込まれた。ゼミ選択も、まったく迷うことなく色川ゼミを選択した。以来、半世紀に近い歳月が経過したが、100冊にも及ぼうとする著作に表れている色川氏のはかり知れない行動力と時代への鋭い批判には、括目するしかない。
私にとっては、全五巻の著作集に結実した「色川史学」創設者とゼミ指導教授という像が目の前にあるが、そうした枠をはるかに超えた歴史家として見るべきだろう。これまでの足跡をみても、ある時はアルピニスト、または八ヶ岳や蔵王の山々を滑降するスキーヤー、シルクロードを筆頭に全世界を縦横にまわるトラベラー、また南海にもぐるダイバーやアドベンチャー、時には小田実とともに「日本はこれでいいのか市民連合」を主宰する政治活動家、水俣問題に迫る調査団長など、さまざまな相貌を隠すことなくさらけだしてくれ続けている。これだけ多彩な活動を展開している歴史家はいないのではないか。自らの経験に支えられ紡ぎだされる知力と発言力、行動力は底知れない。「色川大吉」という人間への魅力はとても一言では語り尽せない。精神史、民衆史、自分史と色川史学のこれまでの軌跡は、歴史を基底で支えている人びとの地平に降りて鋭く切り込む歴史方法論から生まれた。学会とも無縁で孤高をたもって刻み続けてきた骨太の史観といえるのではないか。
私たちは3・11を経験し、原発事故にさらされ、国防や憲法改正へと暗雲が漂い、この国の行末に光を見出していない。こういう時だからこそ、普通の民が刻んできた民衆史を鮮やかに描き出してくれている“行動する歴史家”の声に、改めて耳を傾けてみたい。
[あらい かつひろ/専修大学文学部教授]