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  • PR誌『評論』191号:『戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件』の出版に際して

『戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件』の出版に際して

根津 朝彦

私にとって総合雑誌は気になる存在であった。総合雑誌を熟読することは決してなかったが、大学の学部生だった時から図書館で何か定期的に読めるものはないだろうかという思いがあったからである。授業である教員が「この頃の学生は、『世界』も『諸君!』も読まないから……」というような発言をされたので、「先生、『世界』と『諸君!』を同列に並べるのはおかしいではないですか」といい、大学院生から白い目で見られたこともある。
しかし私がまさか『中央公論』の研究書を世に送り出すことになるとは想像もしていなかった。ジャーナリズムへの期待を捨てず、毎日、現実をとらえ返す批判的な記事が出ていないか祈るように新聞をめくっていた日々から大分月日が経ってしまった。
今なら前述の発言は「自分も青かったなあ」と顧みることができる。ただそれは自身も一定の年齢を重ねたということであり、その青さをよくもわるくも失ったのではなかろうかと感じる。
ここ数年、受入研究者としてもお世話になった赤澤史朗先生の大学院ゼミの飲み会で、先生の学生時代の話を少しうかがった。大学紛争世代ということもあり、若い頃は自信満々で、友人の北河賢三先生と組んで、相手と研究上の論争をして負けたことがないというエピソードを赤澤先生から教えてもらった。いまの温和で優しい先生から他者を論破していく光景は想像しづらく、大変に驚かされた。当然ながら一個人の上でも年齢とともに多彩な顔があることを最近よく考えさせられる。
本書はこれまで私が一〇年弱同じテーマで追究してきた研究成果である。深沢七郎「風流夢譚」の小説を契機に生じた言論テロ事件と、編集者の思想を焦点にして、戦後の総合雑誌で展開された熱気と青さを帯びたジャーナリズムと「論壇」の歩みを描写している。
本書は中央公論社の関係者等の聞書きを経て生まれたものだ。水口義朗さんには「言論機関とよくいうけれど、言論機関という言葉はいつ生まれたのだろうか」と逆にこちらが考えさせられる問いを幾つも受けとった。本書は、メディア史とはやや異なり、「言論機関」が発した言論や報道と、その思想性を主対象とするジャーナリズム史研究として戦後日本の歴史像に一石を投じるものと考えている。
おそらく中央公論社も様々な選択の可能性があったであろう。今回は資料の関係で、深く踏み込めなかったが、1968年の中央公論社の労働組合年末闘争一つとっても、会社側に立って組合側に対峙した宮脇俊三(後の紀行作家)がせめて経営者になれるような出版企業であれば、会社が嶋中家の半ば私物と化して斜陽を迎えるのとは違った展開があったかもしれない。
聞書きの全てをいかせたわけではないので、膨大な音声データのアーカイブズ化も今後の課題になる。
本書は、税金である科学研究費補助金によって支えられたからこそ達成できたものである。天皇制批判のタブー化にまつわる硬派な研究を遂行できたことに対する学問の自由と社会的支援への感謝はここで明記しておきたい。
最近、栗原哲也さんの『神保町の窓から』(影書房)を読んだ。そこでは「出版社に貢献するために研究があるのではないし、研究者もそんなつもりもあるまい」(54頁)と斬り込み、「研究書の神髄は、その研究者の到達点を表現しているかどうかなのだ。またその著者とどのように知り合い、親交を重ね、お互いの魂をどれだけ理解しあっているかなのだ」(102頁)と栗原さんの志が貫かれている。
物が言えるようになるための研究を、物が言える出版社のもとで刊行できたことをうれしく感じている。編集者・執筆者・書店・読者が交わって生じる言論の公共性、ジャーナリズムへの憧れ、これらはネット時代の現在においても普遍的なテーマであり、『中央公論』編集者の思想、苦悩・葛藤に迫った本書を通じて大勢の読者にいま一度考えてもらいたい問題である。昭和天皇の自粛報道は多くの人の記憶に残っているはずだが、そもそもジャーナリズムにおいて天皇制批判のタブー化に強い影響を与えた「風流夢譚」事件を知らない(ないし忘れてしまった)多数の方に本書を届けられればと願っている。
 [ねづ ともひこ/国立民族学博物館外来研究員]