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古島敏雄先生の思い出—著作集を再読して

阿部正昭

古島敏雄先生(1915-95)は、60年におよぶ学究生活のなかで、日本経済史・農業史に関する多くの業績を発表された。これらは「古島史学」と呼ばれて学界の財産になっているが、若い研究者や学生諸君は先生をどの程度ご存知だろうか。東京大学出版会はかつて『古島敏雄著作集全10巻』を刊行したが、30年近い月日をへてその多くは品切れとなっていた。先生と縁の深い飯田市立歴史研究所が、2005年に著作集を復刊し、同時に『古島史学の現在』という興味深い小冊子を出版した。
この著作集の特徴は、前期六巻すべてに、先生ご自身による詳しい解題が、第1、7巻に「略年表」と「著書・論文目録」が所収されていることである。各巻の解題は、それぞれの論文・著書の問題意識、利用した地方史料と文献類の性質と分析方法、さらには結論への論証過程を説明しているので、現在、研究を志す者にとって示唆にとみ、かつ有益である。後期四巻の解説は、50年代に先生に学んだ専門家による要をえたもので、これによって読者は、各巻の論文内容とその客観的意義を正しく理解できよう。先生の著書・論文ほか随想など総数三百余の業績は、時期と問題別に、いくつかのグループに分けることができる。
(一)初期の約10年間の業績。先生は1935(昭和10)年から、信州伊那の地方史料により、近世農業構造の研究を進められた。その成果が著作集の第1〜4巻である。先生は、これらの研究を、「地方限定的な史料によっても研究史をふまえた精緻な分析なら将来に向かって一般性をもちうる」として発表され、さらにこれらの個別論文を基礎に、全く独自の領域=農学史・農業技術史の包括的研究を進められた。そのために広く文献・農書を渉猟し、これらを読み込む孤独な努力の結果、『日本農学史』(第五巻)、『日本農業技術史』(第六巻)を完成された。戦時下の社会状況は一般の国民にとってきわめて厳しいもので、研究者も例外ではありえなかった。学問・思想・研究の自由など全く存在せず、年をおって国民生活は窮乏化。健康上の理由から兵役を免れ、体調不良に苦しんでおられた先生も、「明日は召集か」という切迫した恐怖の中での生活を余儀なくされていた。四五年、米軍の空襲により、住居・蔵書・研究ノート類など、一切の生活と研究の諸条件を焼失されたことは、その後の先生の生活と研究に大きな障害となった。
(二)敗戦(1945)後の数年間、先生は、農地改革と農村民主化運動に参加し多くの農民に接しながら、不在地主・在村地主をめぐる問題に注意を向けられた。先生は、専門を異にする研究者たちと共に「農村調査グループ」を組織し、農村をめぐる緊急な課題について共同研究を始められた。その成果が『山村の構造』(御茶の水書房、1952)、『商品生産と寄生地主制』(共著、東京大学出版会、1954)である。この時のメンバーであった永原慶二氏は、当時の先生を次のように評価している。「ちがった学問分野の人々が一つの調査団を組みえた理由は、古島さんの指導的役割が大きかった(抄)」(第10巻岡光夫氏の解説による)。その後先生は、いくつもの共同研究を組織し、戦後の経済史・農業史研究体制の革新に貢献された。
(三)50年代半ばから十数年間、先生の研究は地主制に集中した。その業績内容は第八巻の丹羽邦男氏の解説に詳しい。この頃、先生の下で十名余の大学院生・研究生が「地主制展開と地域性研究」を目標とする共同研究を始めた。自由で民主的雰囲気の中での集中的な共同研究の成果が、『近代土地制度史研究叢書』(全9巻、御茶の水書房)である。ここでの先生の指導ぶりは、旧式の師弟関係とは無縁だった。
(四)60年代、先生は、地主制確立期の農村工業の動向と産業資本の形成を対象に、明治期以後の諸官庁統計と県庁史料を集中的に検討された。その成果の一つが、『産業史㈽』(山川出版社、1966)である。先生は1958年に英国に留学されたが、これを転機に先生の研究関心は、アジア・アフリカ諸国の近代化と農業問題にも向けられた。この問題の重要性に着目された先生の下で、十名余の大学院生がアジア・アフリカ諸国の研究者に育っていった。先生のこの問題提起の先見性は、二一世紀の現在、その意義をますます深めている。
先生の研究生活において、時に濃淡はあっても、常に先生の念頭にあったテーマの一つは、「農村構造・農村生活と水利制度・入会制度が、歴史的にみて村落結合とどのように関連しているのか」、という問題だった。七巻の諸論文は、自然保護・環境問題の今日的課題を考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。この点で笠井恭悦氏の解説は興味深い。関連して『土地に刻まれた歴史』(岩波書店、1959)での先生の視点に注目しておきたい。もう一つのテーマは、農学史・農業技術史の領域であろう。先生の農書研究は、「近代科学導入以前、日本人が農業・農業技術をどうみていたか」を知ることであり、「農書を通じて農業の生産と技術の様相」を知るためでもあった。この問題意識は「明治期の近代科学の導入が、農業と農業技術にどのような影響を及ぼしたのか」という近代農学史研究に発展する。この点で、『農学1、2(日本科学技術史大系第22、23巻)』(第一法規出版、1970)、『近代科学思想 上(日本思想体系62)』(岩波書店、1973)、『農書の時代』(農文協、1980)などが参照されるべきだろう。先生の農学史・農業技術史研究への執念は、『残るものと亡びゆくものと』(専修大学出版局、一九八四)、『社会を見る眼・歴史を見る眼』(農文協、2000)からもはっきり読みとることができる。
先生の人柄について少しふれておきたい。先生は、初期に利用した村方史料を、「土地で活躍する知己の協力によりえた」と述べて、郷里の友人たちに感謝しておられる。また多くの共同研究において、先生は、仲間を大切にしその意見をよく聞く方だった。先生の人間性は、友人たちの中で輝いていたのだ。先生の下で多くの学生たちは、「自分の疑問を大切にして問題意識を育て、理論や権威に頼らず、人まねをしない学風」を学び、今もこれを人生の指針にしている。                                             [あべ まさあき/法政大学名誉教授]