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  • PR誌『評論』190号:三行半研究余滴5 「舅去り」の三くだり半

三行半研究余滴5 「舅去り」の三くだり半

高木 侃

今回はまず離縁状蒐集の方法・過程を述べる。研究する上では必ずしも実物を蒐集しなくてもよく、文書館・資料館・図書館等に調査に行き、離縁状があれば、実見して写真もしくはコピーをとることですむ。ときに情報を得て旧名主宅などの所蔵者を訪ねることもある。調査して一通見つけるのにどのくらい経費が掛かるのか原価計算したことがある。およそ1通1万8千円位で、それなら実物を購入するのも一方法である。縁切寺をテーマの講演などに出かけて、離縁状の実物を見せないと聴衆が納得しないというのが離縁状蒐集の直接的理由であった。
所蔵する実物の離縁状もすでに200通を超えたと思われるが、相変わらずさらな蒐集を続けている。蒐集経路は主に二つ。古書店のカタログ販売と最近はインターネットオークションである。この9月下旬に入手した離縁状は畏友菊地卓氏と懇意にしている栃木県足利市の古書店からの情報(電話)であった。婚約者(男)が死亡したときのものらしい話で、それなら庶民でも武士同様に婚約者の死亡による婚約(ひろく婚姻)解消の手続きがあったことになり、ごく珍しい「婚約解消」の、異例なケースと思えた。筆者の住む太田市は隣で、翌日自宅まで届けてくれた(その親切な書肆を中西尚古堂という)。しかも予想外に安価で頂戴した。入手方法も特殊な、きわめて幸運な例である。
その離縁状の写真(左頁)と釈文(解読文)を掲げる。大きさはタテ28.0、ヨコ35.0センチである。
   一札之事
一貴殿御息女、忠八娵ニ貰
受候処、夫忠吉死去仕及
破縁ニ候、然上は御息女義何方え
縁付候共、忠八は勿論組合之者迄も
一向差構無御座候為後日一札仍如件
       上飛駒村
 文化八年   忠八組合惣代
  未九月     善右衛門∪
          久  八∪
    名草村
     与惣治殿
上飛駒村・名草村はともに下野国足利郡の村(現栃木県足利市)である。
本文の読み下し文は次の通り。
 貴殿御息女、忠八娵に貰い受け候ところ、夫忠吉死去つかまつり破縁におよび候、しかる上は御息女義、何方へ縁づき候とも、忠八は勿論、組合の者までも一向さしかまえござなく候、後日のため、一札よってくだんのごとし
この離縁状は忠八の倅忠吉が死去したので、忠吉の嫁(忠八には娵)を忠八が破縁(離縁)したこと、だから誰と再婚しても差し支えないというものである。
このように倅が死去または勘当されたとき、その父親(舅)が倅の嫁を離婚することができ、これを「舅去り」といった。この種の舅去りに関する離縁状はこれまで3通、返り一札を一通見出している。従来、夫方父親(舅)が一方的に倅の嫁を追い出すことは、舅の権利と考えられていたが、それはタテマエで、江戸時代の実態は妻方の請求をうけ、実家に帰したものである。つまり、「舅去り」は妻方に配慮してなされたのである。
差出人は五人組で、この離婚に介入したものであろうが、この地域では結婚・離婚が当事者間の問題ですまず、地域社会での重要な問題だったことをも意味している。
かつて本陣で苗字帯刀を許された宮城県内の旧家に明治27年の舅去り離縁状がある。死亡した末息子の妻には4人の子があったが、「平素家風に立ち合わず、今回差し許し難き事情」と明記され、亡き夫の「牌前」つまり位牌の前で離婚を申し聞かせたとある。あるいは「家」意識が強く認識されるようになったのは、明治時代、それも中期以降のことと考えられる。
なお、「倅の嫁」は狭義の意味で「娵」の字をあてる。「忠八娵ニ貰受」との表現はまさに適切なのである。
 [たかぎ ただし/太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]