神保町の窓から(抄)

安全は誰が確かめたか?
▼借金が多いという理由で、会社の継承を拒否する思想がある。会社は自分たちが食っていく場所だ。だから、誰かが引き受ければ済むことだが、誰も受けて立たなかったら、その会社は逃散か閉鎖を余儀なくされるだろう。これは愚だが悪とまでは言えない。
 だが、国家の場合、赤字国債が多すぎる、あいつらが作ってきたこの国なんか引き受けられるか、といって放棄することはできない。むしろ、「あんたじゃこの国はダメになる、オレがやる」と出張るのが代議士や政党の仕事だ。国民の代表者としての必然の行為である。会社の重役や古参社員の生態とはわけが違う。
 原発事故についても、この政策を進めてきたのはあなた方自民党だから、あなた方が起こした事故については責任はとれない、とは言えない。政権を奪取した民主党はいま正念場に立たされている。
 1960年代初め、東海村に建設した動力試験炉が発電した。日本の原発の誕生だった。60年代後半、自民党政府は原発について「将来の大事なエネルギー源」と位置づけ、原発建設に積極的に取り組みはじめる。福島第一原発の一号から六号機は全て1970年代に建設され、福島第2の1号から4号機は82年から87年にかけて作られている。
 2009年秋、民主党は、東日本大震災の発生など選挙のマニフェストには入っていなかったろうが、社民党、国民新党と提携して3党連立内閣を発足させた。ギクシャクしながらの政権運営であったが、その初期においては、国民の期待を集めたものである。鳩山内閣は、オキナワ問題などに躓き、1年も保たず菅内閣に代わる。東日本大震災が起こったのは菅首相になって9ヵ月目のことである。福島第一原発の事故の対応について海江田経産大臣、枝野官房長官などと共にテレビに映し出されていたのはついこの間のことだ。原発が抱えるとてつもない危険性が全国民の身に沁み、つながることの大切さを感じ、絆だ連帯だということも思いおこした。脱原発は大方の国民感情となり、首都では何十年ぶりかになるだろうデモまで組織された。
 自民やその他の政党に突っつき回されながら、2011年、野田内閣誕生。福島原発事故が手もつけられていない状況の中で、である。「原発の再稼働はさせない」という方針を貫くかに思わせた野田政権であり、全ての原子炉が止められもした。そのうち「安全確認」という言葉が登場し、再稼働が浮上してきた。自治体の首長などにも、現地の意向や消費者の要望などと共に、再稼働への圧力が増していった。そして、6月に関西電力大飯原発3号機、四号機の再稼働が決定された。野田首相は「原発を止めては、日本はやっていけない」と記者会見で言った。「脱原発」と一言でも口にした者が、その舌の根も乾かぬ同じ口から出す言葉だろうか。その前に「脱原発」路線でいくとこんな風になっちゃうのですよ、というマイナスの未来図も見せてもらいたい。その上でわれわれがどうするか、を考える、つまり参加の場や時間が欲しいのだ。ただの消費者にしたって、電力不足は「かなわねえな」とは思うし、暮らしにどんな影響が出るのかも多少の予想はつく。だから、これからの長期にわたる電力の基本方針、不変不動の政策提示をしてからにしてもらいたいのだ。なし崩しは悪だ。いけないことだ。国民も政権を批難するだけでなく、充足感のある何ごとかをしなければならない。もちろん私もだ。
 「脱原発」だったら多少の暑さやうす暗さには我慢するし、成長の止まった社会でも生きる方法を捜すことはできるはずだ。腹が減っていても、つながる幸せに浸ったほうが生きる力が湧いてくるかも知れない。
 原子力発電の年表を見ていたら、着工予定のあった発電所はいくつもあったことを知らされた。島根の3号機は2011年12月に運転開始予定だったこと、敦賀では2018年に3号、4号機が運転を予定していたこと、また、東京電力は、2020年ごろまでに運転できる発電所を3ヵ所も計画したり着工したりしていた。地元の人々は、もちろん知っていることだろうが、国民一般にはなにも知らされていないのだ。
 昨日家に帰ったら、東京電力から「電気料金値上げのお願い」というビラが送られてきていた。
▼今年も決算をしなければならない面倒な時期がきた。毎年同じ段取りで、全く同じ形式で数字を埋めていくのだが、その埋められる数字が小さくなっていく。桁の下がったものもある。年度の発行点数52点、総発行部数5万3000部、1点当たり1000部そこそこなのに、倉庫には本が貯まる一方だ。また、売上も業界の下降傾向と軌を一にして、何年も続けて下落している。困ったものだ。毎年同じことをボヤいている。ボヤキの内容に進歩がない、発展もない。 (吟)