地域から見る日朝関係史

田中 正敬

2007年1月27日、私たちは「なぎの原」と呼ばれる小さな空き地にいた。およそ200坪、真ん中には7、8メートル以上はあろうかというこぶしの木がそびえ立っていた。冬のさなかで葉はついていない。他にも小さな木や畑があり、その空き地を囲むようにして家が建ち並んでいる、そんな場所だった。
1923年9月1日に起こった関東大震災の直後、9月8日から9日にかけて、ここで住民により朝鮮人が6人殺され穴に埋められた。震災後、習志野にあった騎兵連隊などの軍の施設に朝鮮人が護送され収容されたが、犠牲となった6人の朝鮮人も、この収容所に「保護」されていた人びとだった。軍隊は収容所の朝鮮人を選別して自ら殺害するとともに、施設周辺の村に下げ渡し殺させたのである。
専修大学大学院の東洋近現代史ゼミナールの院生と私は、前年の秋に、横浜市内の関東大震災朝鮮人虐殺関連の地域をめぐるフィールドワークに参加する機会を得た。その時の「充実感」にすっかり魅了された私たちは、今度は千葉に行ってみようということで、「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の平形千惠子さんと大竹米子さんにご案内をお願いしたところ、快く引き受けて下さった。実行委員会は1978年に結成され、現在に至るまで船橋・習志野・八千代における朝鮮人虐殺の解明を行ない、また地域の住民とともに死者を悼んできた、市民により構成された団体である。
午後に千葉県八千代市のとある駅に集合した私たちは、レンタカーを借りて高津観音寺に到着、ここを起点に周辺をフィールドワークした。この地域には高津観音寺境内を含めて四か所に朝鮮人虐殺に関連した追悼碑や墓がある。
事前に実行委員会の方々が書かれた『いわれなく殺された人びと──関東大震災と朝鮮人』(青木書店、1938年)を読んでいた私たちは、一応の知識は持っているつもりではいた。だが、実際に「なぎの原」に降り立つと、その事実の重さに圧倒された。
そこでお二人の説明を聞いているうちに、私たちを遠くからじっと見つめている人に気がついた。家の庭に立っていたので、恐らく「なぎの原」の周りの家の住民だろうと思う。フィールドワークを記録するつもりで買ったばかりのビデオを回していた私は、そうした行為を非難されている気がして、「なぎの原」の全体を撮ることができなくなった。
後で平形さんに伺ったところ、そうした意図ではなかっただろうとおっしゃっていたので、それは杞憂に過ぎなかったかも知れない。後で見直してみても、地面ばかり撮っていたそのビデオは、記録としてはあまり役立つものではなかった。ただ、そのような心配をするほど、平形さんと大竹さんの話からは、地域で加害の問題を掘り起こす難しさを感じさせられたのである。
「なぎの原」では、震災40周年を迎える頃から地域の二人の住民により塔婆が建てられ犠牲者を供養してきたが、そのことは外部には伏せられた。
だがその後、前述した事件が明らかになり、実行委員会が調査を進める中で住民の意識も変わった。実行委員会は、事件の調査とともに加害者の立場に立つ地域住民と犠牲者を追悼することにこだわった。そして、震災60周年を迎えた1983年には、地域住民と実行委員会が共同で追悼行事を行なうまでに至った。だが、遺骨を掘り焼骨して供養するまでには、さらに15年あまりの時間が必要だった。
一方、船橋では戦後すぐに犠牲者同胞の朝鮮人により大きな碑が建てられ、それから現在まで追悼式が行なわれている。その差異は、この地域の加害と被害それぞれの課題を負う人びとの歴史を象徴している。
このたび『地域に学ぶ関東大震災』執筆において私たちがこだわったのは、そうした歴史を解き明かしてきた調査者の生の声を、私たちが受けた印象とともに記録すること、それから、本書を片手に実際に地域を歩いてそれを実感してもらえるようにしたいということである。この地域の近現代史は、植民地支配がもたらした日朝関係史の縮図である。そのことを本書から感じていただければ幸いである。
[たなか まさたか/専修大学教員]