都市計画思考の転換せまる〈3・11〉

岩見 良太郎

被災地釜石、陸前高田の地に立ったとき、計り知れない自然の破壊力、人知と人工の力のあまりの脆弱さを思い知らされた。自然と不断に対話し、自然の力を借りながら、自然を治めるという、それまでの、私のまちづくりの考え方は、粉々に押しつぶされてしまった。
“元のところに住むことなんかできない、山を削って高台に移転したい”というのが石巻で津波にのみ込まれ、九死に一生を得た人々の声であった。
「自然とたたかい、そこに居を構える」という自然支配としての近代都市計画を説いたコルビジェの言葉がよぎった。実際、東日本大震災後、復興事業として目指されているのは、千年に一度の巨大津波にも耐えられる防潮堤の建設、防災拠点、防災集団移転とニュータウン建設、浸水地域のかさ上げ等々の大規模開発である。被災地以外でも、最悪のケースを想定して、ハード中心の防災都市計画を強化していく傾向が、以前にも増して顕著になっている。
はたして、こうした防災都市計画の方向は正しいのか、『場のまちづくりの理論──現代都市計画批判』(日本経済評論社、2012年6月)を執筆しつつ自問を続けてきたが、やはり、それを是とすることはできなかった。
関東大震災を経験した寺田寅彦は、「重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではない」(「天災と国防」)と、人工による自然の克服の限界だけでなく、その試みそのものが、より危険な都市を創り上げていくことを喝破していたのだ。二度と同じ愚をくりかえしてはならない。
また、そもそも、完全に安全な都市を創り上げることは財政的にも不可能だ。そのためには天文学的な財政支出を必要とするからだ。たとえば、スーパー堤防は、200年に一度の大洪水に耐えられ、地震に安全という触れ込みで、事業が進められているが、一メートルつくるのに1億円もかかり、それが完成するまでに5百年以上の年月がかかる。そのほか、耐火、耐震、防潮等の整備をやり遂げるには、想像を超える財政支出と歳月を要するであろう。しかも、100年経てば、施設は更新時期を迎える。永遠に完成しないのである。さらに、国交省がすでに試算しているように、2020年には新規公共投資にまわす財政的余裕はゼロになる。人工によって自然を打ち負かすという発想は、幻想にすぎないのだ。
地球規模の環境危機に直面している現在、最近、海外のある研究者グループが、このままいけば、数世代で地球生態系は崩壊するという警告論文を英科学誌ネイチャーに発表した。人工強化の防災まちづくりは、エネルギーと財の消費を膨大にし、地球生態系の破壊に与することになる。また、膨大なエネルギー需要は、原発をおのずと要請することになろう。安全のため、強力な人工環境をつくりあげることによって、自らが住む生態系を破壊し、後の世代の生存環境を奪う危険を犯して、何の「防災」か。
しかし、いわゆるハードに依存した防災まちづくりの根本問題は、安全と引き替えに、豊かな日常生活を手放すことになるという点だ。災害から身を守るため、コンクリートと鉄の中に自らを閉じ込め、都市に生きることの最高の意味、すなわち、人々とのゆたかな交わり、自然とのふれあいを極小化するような防災まちづくりは、決して正しい意味でのそれではない。共に生きる喜びを感受できないような都市では、ひとはバラバラに引き裂かれ、防災の最大の力である、人びとのつながり、〈縁〉も失われてしまうからだ。むしろ、防災まちづくりの最優先課題は、自動車、超高層ビル等、災害の拡大につながる危険物を削減し、取り返しのつかない都市破壊をもたらす原発を廃棄することだ。豊かな日常生活の場として都市をつくっていくこと、それが防災まちづくりの要なのだ。
[いわみ りょうたろう/埼玉大学名誉教授]