ニーズとは何か

福士 正博

「ニーズとは何か?」この問いに躊躇なく答えることのできる研究者はまずいないだろう。人として生きる上で求められる必要物という一般的な答え方をしたとしても、そのことでニーズの量的側面(人間は最小限の生き方を余儀なくされているのか、豊かに生きることを奨励されているのか)も、質的側面(ニーズは人間の相互依存的性格から見てどのような意味を持つか)も、明らかになったわけではないからである。ニーズの意義を明らかにするには、その論争的性格を取り上げてみることが必要となる。
しかしここで求められているのは、ニーズを、リベラリズム、コミュニタリアニズム、マルクス主義など「大きな」ストーリーの中に組み込むことではなく、生活現場のあり様を端的に表わす日常言説として描くことである。ニーズは常に、生活現場から生まれる要求に基づいて解釈された構築概念である。要求をニーズにまとめ、それを権利に翻訳する作業を通じて具体化していくことが必要となる。
この課題に応えるには、絶対的/相対的、主観的/客観的、基本的/高次の、といったニーズに付けられてきたこれまでの形容区分から離れ、別の座標軸を設ける必要がある。この課題に真正面から取り組んだ研究成果に、ハートレー・ディーン『ニーズとは何か』(Understanding Human Need, The Policy Press, 2010)がある。彼は、本質的/解釈されたという区分と、薄い/厚いという区分を設け、それを座標軸として作られる四つの象限に、人道主義的、経済主義的、道徳─権威主義的、温情主義的アプローチを当てはめている。
彼は、この中で人道主義的アプローチを採用し、「私の理想は、状況的ニードばかりでなく、特定ニーズや共通ニーズと定義したものを調整可能にする普遍的ヒューマン・ニードの開かれた理解にある」と述べ、「厚く」、「普遍的に」、「豊かに生きる」ニーズについて語ろうとしている。
この指摘で大事なことは、「(様々なニーズを)調整可能にする開かれた理解」の意味である。この言葉には、あるアプローチやニーズがその他のアプローチと交渉し、それらの欠点の克服に向けて調整が行われるという意味が込められている。普遍的ニーズはこれまで、そこで設定されている人間像が抽象性を帯びているために、薄いニーズにあたると理解されてきた。本質的ニーズが人間の本質から逆算したものであるのに対して、解釈されたニーズが生活現場の具体的要求を表現した体感的ニーズという性格を持つという点を考えるならば、普遍的ニーズをただちに厚いニーズと呼ぶことは難しい。この矛盾にどのように答えればよいのだろうか。彼は、普遍的ニーズを、「「厚く」考えられ、人間主体にとって「本質的」であるニードについて述べた用語」、と定義している。そこには、普遍的ニーズが想定する独特の人間像がある。
「それらは倫理的な意味で人間的である。ヒューマン・アクターは受動的という意味での脆弱な存在ではなく、人間性から定義される一人の社会的行為者として構築されている。そうしたアプローチは、我々の類的存在が社会的関与を通じて構築され、人間性が幸福論的な意味での実現を求めているという理由から、厚い考察が行われている」。
ここでは、人間が相互依存的存在であることを理由に、普遍的ニーズは厚い考察に基づいていなければならないことが指摘されている。普遍的であるにもかかわらず、「厚い」という矛盾を解消するには、両者をつなげる媒介環が必要となる。ディーンはこの点について、ニーズの幸福論的倫理と批判的自律の二つを挙げている。とくに批判的自律は、「政治的自由や、規則に疑問を持ち、それに同意したり、その改革に参加する機会と関係した、より高度な自律」を意味するだけに、ニーズ要求の実現にとって重要な役割を果たしている。彼が主張するように、ニーズを権利に翻訳するには、「ニーズの政治学」を潜り抜けることがどうしても必要となる。彼がナンシー・フレーザーの「ニード解釈の政治学」に注目し、公共圏での対話、承認の手続き、「参加の同等性」といった基礎概念の精査をあらためて訴えているのはそのためである。
[ふくし まさひろ/東京経済大学教授]