神保町の窓から(抄)

▼10歳のときに「国と夫に詫び」て死んだ姉と別れて、「家」や「村」や「国家」を意識し、もっと本を読みつづけたいばっかりに、家庭を持たず、ひたすら戦後という昭和を生きてきた一人の東北女性がいる。彼女は結婚相手や職業さえも自由に選べないこの国の不条理に対して、その生涯をかけて抵抗しつづけてきた。
 そして30年ほど前、50歳になる少し前か、小さな読書会を組織し、地域の女性たち、(といってもおばさんたち)に向かって「書くことは生きること、読むことも生きること、話すことも生きること」を呼びかけてきた。家や子どもを守ってさえいれば何事も起こらず平穏=いさかいのない日々なのだと思い込まされてきた彼女たちは、今まで何げなくこなしてきた野良仕事のこと、嫁という立場、姑とのいさかい、貧乏……その他もろもろの中に「社会」との関係を感じとっていく。この村のおなごたちは仲間との対話を通して、文章や詩を書くことは、自分の考え方をつくり自らの生き方を決していく力になる、と今は確信している。
 おなごたちのおしゃべりや読書や詩作のたまり場「ら舎」は、「家」に入ることを拒否し、「家庭」らしきものも持たない、雨ざらしのまま生きてきた小原麗子さんの拠点である。今年の初め、大門正克先生の強い意志によって編まれた『自分の生を編む 小原麗子詩と生活記録アンソロジー』は戦争と女について、地べたから発言しつづけた魂の記録である。
 読み始め、女たちの恨み言ではないかと思ったが、くやしさ半分読み進むうち、この国の因習や無法を高らかに笑い飛ばしているふうにも思える。そして書くことがこんなにも、力を湧かせ、仲間とつながれ、人びとを納得させるものかとあらためて思わざるを得なかった。心やさしき人にご一読をすすめます。久しぶりに読後の爽快な本に出くわし、ついでにポール・エリュアールの詩を思い出した。「俺の大事なノートに/机の上に 木々に 砂の上に/そして 雲の上にも/俺は お前の 名前を書く/……そして ひとつの言葉の力で/俺は もう一度/人生に たちむかう/俺は お前に会うために/お前の名前を 書くために/自由よ!」
▼この神田に、大正13年創業の法律書専門の取次店がある。経営は井田家一族によって継承されてきた。もう90年にもなろうという取次である。何代目に当たるのか不明だが、正月、ここの井田元会長が亡くなられた。84歳だった。
 小社には法律書は数えるほどしかない。だから取引といってもその額はタカが知れているのだが、なぜか創業間もなくから、いろいろやっかいをかけてきた。近所の取次日販から受け取る手形を割ってもらいつづけたのは、どれほどの期間だったろうか。そのうち、通帳とハンコを持たされて、自分で銀行にいって手続きしてこいということにまでなった。亡くなった会長の母(おばば)も赤いスカートを穿いて、きつい目であれこれ言うのだ。髪の毛がボサボサだとか、ワイシャツの襟が汚れてるだとか、およそ商売に関係ないことを指導された。それでもこの「大学バンク」がなかったら、どれほど不自由したろうか。そして言葉は乱暴にきこえたが、何か暖かみのある仕種であった。おばばと夕方からスーパーニッカを飲みつづけたこともあった。鏡開きには今でも招ばれしるこを腹いっぱいごちそうになる。会長の弟シゲさんに、御茶ノ水の焼鳥屋で、鳥の皮を腹いっぱい食わせてもらったこともあった。おばばも、シゲさんも、会長も、みんな逝ってしまった。往時は茫々。いずれそちらに参りましたら、資金繰りなど心配せず、今度は私がおごります。現社長隆さんの精進を祈ります。会長、安らかなれ。
▼前号でお知らせした善光寺地震の被災者中条唯七郎(村役人)の綴った被災記録『善光寺大地震を生き抜く』ができた。専修大学の青木美智男先生と中村芙美子さんたちが読みつづけてきた史料である。この翻刻読書会が終わって原稿が出来あがったちょうどその時、東日本大震災が起こったのだ。解説者の青木先生は「テレビや新聞で伝えられる震災後、被災者が体験している日々が、そのまま善光寺地震を体験した人びとの日々に当てはまると思うくらい類似していることに驚きを感じ」、「地震の歴史的研究とは、発生時の印象が強烈すぎて、どうしても被災状況や災害の規模に関心が移りがちで、その後の余震に悩まされる毎日にまでは及んでいない」と思ったという。研究者としての災害に対する直感だろう。青木先生は口も早いが、手も早い。そう思ったと同時に小社の入口に立っていた。歴史学研究会も災害史研究に見直しを提案している折でもあり、逃げるわけにはいかない。気持は緊急出版だった。急いで体制を整え取り組んだ。中村さんの校正も素早やかった。陰の応援団もいた。暮れのドン詰まりにできました。どうぞみなさんも、この本を読んでみてください。そして余震が七年も続いた大地震の恐怖の日々を共有してください。 (吟)