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  • PR誌『評論』186号:福島自由民権と門奈茂次郎10 目的と手段

福島自由民権と門奈茂次郎10 目的と手段

西川 純子

手記「東京挙兵乃企図」において茂次郎が明らかにしたかったことは、詰まるところ、革命の志士たる者が何故に殺人・強盗の罪に問われなければならなかったかについて当事者の真意を明かすことであった。金銭が目的でない場合にはそれを正当化する大志がなければならない。加波山事件の裁判はその大志を無視して、動機も十分に糾さずに破廉恥罪をなすりつけたのであった。したがって、茂次郎はその大志を手記において明らかにしなければならなかったのである。
彼の大志とは、すでに述べたように、武力蜂起による藩閥政府の転覆であった。政府高官を暗殺しても代わりはすぐに出てくるし、西南戦争のように篭城しては政府軍に勝つ見込みはない。残された方法として茂次郎が考えたのは、政府の心臓部を一気に突き刺すような奇襲であった。自由党の青年同志を東京に集めて極秘裏に一隊を組織し、機至れば警視庁、鎮台、近衛兵営を一斉に襲って中央政府を制圧するというのである。
では大志があればその実現のために手段を選ばぬことが許されてもよいのか。これについて茂次郎は次のように述べている「古来何れの時期に在りても政権争奪の上に見る革命・戦争その他の直接行動に出る場合は目的の為に手段を選ばざるは寔に余儀なき次第なるもソレは前後の事情が他に執る可き何等の方法なき急迫の関係が伴う事に依りて始めて容認を受く可きものにて若し其間一点の誤謬あらんか志士の人格に疑義を生ぜしむるは免れざる処に御座候」(門奈茂次郎から落合三郎へ、1929年5月13日)。茂次郎は目的の為に手段を選ばぬ行為を認めているわけではないが、万止むを得ない場合に限っては許されるはずだとして加波山事件を弁護しているのである。しかし、これはすべてのテロやクーデタに当てはまる理屈であろう。自由民権の志士ならばまず人権に思いを致さなければならないのに、そこに至らなかった茂次郎の思考は、彼が生まれながらに沁みついた武士の発想を抜けられなかったことを示している。私が祖父から民権思想を嗅ぎとることができなかったのはそのためかも知れないと、今にして思うのである。

おわりに
祖父のことを書いてみたいと思いながら長いこと果せないでいた。私が祖父を尋常ならざる生き方をした人物として意識したのは、大石嘉一郎氏に私の旧姓が門奈だと明かした時である。大石さんは目を丸くして、あの刀を振り回していた男が君のお祖父さんか、と云われた。福島から父を訪ねて自由民権研究家の高橋哲夫氏が東京の家に来られたときは驚いた。父は終戦後に北炭の本社に移っていたので、祖父の消息がつかめなくなっていたのだという。氏は信夫山で偶然にも門奈家の墓を見つけて小躍りされたそうである。星亨の玄孫だという田﨑公司氏を知ったのは歴史学研究会の縁である。編集委員会で私の夫の西川正雄が口を滑らせたのがきっかけであった。田﨑氏は早速、私の手許に貴重な資料の数々を届けてくださり、門奈茂次郎について何かを書いて欲しいと云ってくださった。あれから何年経ったか、田﨑氏は忘れておられるかも知れないが、今ようやく約束が果たせそうでホッとしている。三春の博物館のことを教えてくれたのは大島美津子氏であるが、そのときまで迂闊にも彼女に福島事件裁判についての論文があることを知らなかった。しかも彼女と並んで『日本政治裁判史記録』に加波山事件裁判を執筆しているのは夫君の太郎氏だったのである。寺本千名夫氏には空知と樺戸の集治監めぐりを先導していただいた。氏が囚人労働に関心をもっておられることを私は知らなかったが、私が空知へ出かけていった理由を知って驚いたのは氏の方であったに違いない。
私は4人兄妹の末っ子だが、兄妹のそれぞれが抱く祖父の印象は決して一様ではない。長兄は門奈家の跡継ぎとして祖父から有形無形の圧力を受けたらしい。次兄はあれこれ使い走りをさせられて人使いの荒い爺さんだと思っていたらしい。私と二つ違いの姉は母の影響か、文人としての祖父を尊敬していた。祖父は源一竿と号してなかなかよい字を書いたのである。姉が大切にしている短冊の一枚に「時しあらばこの身はいつもみそぎして大和島根の露ときえなん」というのがある。枕には「2・26事変の後時事を慨して」とあった。2・26事件といえば祖父は75歳だったはずである。若い兵士たちの決起に祖父はひそかに「東京挙兵」の大志を重ねたのだろうか。そう思うと私の胸は少し痛むのである。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]