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  • PR誌『評論』186号:『善光寺大地震を生き抜く』と3・11

『善光寺大地震を生き抜く』と3・11

青木 美智男

私たちはこの間、信濃国埴科郡森村(現在・千曲市森)の名主中条唯七郎という老人が書き残した「徒然日記 附 地震大変録」の翻刻を続けてきた。これは弘化4年(1847)3月24日に起こった信濃善光寺地震の体験記である。2月末にその翻刻が終り、原稿が完成したところで、奇しくも3・11の東日本大震災に遭遇した。
連日、新聞やテレビは復興と原発事故一色だった。その報道を見ていて地震と大津波の被災者の皆さんが体験している日々が、善光寺地震を体験した被災者の日々と重なることに気づいた。
そして大地震とは、本震の被害もさることながら、頻発する余震に脅えながらも復興への道を歩む過程が大事であることを認識させられた。そこで善光寺地震の余震について振り返ると、古川貞雄氏の「善光寺地震の余震記録」(『市誌研究ながの』1号、1994年)くらいしかない。ただそれは、7年にわたり連日続いた余震の回数に関する紹介が主である。その点で中条唯七郎の「徒然日記 附 地震大変録」は、地震後わずか80日余の記録だが、その間の村人の生活の様子をリアルに描いているすごい記録である。
七五歳の著者唯七郎は、「毎日船に乗っているような」生活を強いられながら、入ってくる地震情報を克明に書き留め、時には、自分の目で確かめねばと実際に現地を訪れ、惨状に驚嘆する。そしてこの大地震を、大揺れによる家屋崩壊→火事→山崩れによる堰き止め湖の決壊によって、「圧死・溺死・焼死等の変死」という大惨事を招き「正真の地獄という共これにしかんや」と現世に地獄を見る。それに3月10日からの善光寺御開帳の参詣客の被災者が加わる。唯七郎は、「日本開闢以来加様事有之哉」と思うに至る。
地震はこれで収まらなかった。連日連夜、身体に感じる大小の余震と地鳴りが続く。犀川の堰き止め湖の決壊を予測して避難する農民たちはすごい数にのぼる。田植えの季節を迎えれば、灌漑用水の崩壊と地震による水脈の変化が、水利用の障害となる。収穫期には水車も動かず精米も容易ではない。
大名らは復興に向けて大量に労働力の動員をかけるので、農作業に支障をきたし悲鳴をあげる。このような難題に向き合いながら農民たちがどう生き抜いたのか、唯七郎は地震後の生活や生産の様子を書き続ける。
善光寺地震はこんな状況が7年も続いた。この間、震度五程度の余震が頻発すれば、復興への見通しが立たない。そんな事態を憂慮しながら唯七郎は77歳でこの世を去る。唯七郎は、長いスパンで地震を見て欲しい、被災者の目線で復興の歩みを見て欲しいと言い残したかったのだと思う。この思いは、東日本大震災から10ヶ月後の被災者の苦闘の日々を思うと、説得力をもって迫ってくる。
唯七郎は、地震による被害の大きさを、「永山(飯山)が壱、新町が弐、善光寺が三、稲荷が四」とランクづけした。永山は飯山城下。新町は北国脇街道と犀川の間の在方町。善光寺は日本有数の門前町。稲荷は善光寺街道の稲荷山宿を指し繁栄した宿場町である。
『歴史学研究』(884号)の緊急特集「東日本大震災・原発事故と歴史学」で平川新氏は、「津波浸水域」地図を使い、阿武隈山地のへりを這うように走る浜街道が、津波浸水域の境界線だという。浜街道は、ここまでが安全という歴史的教訓を踏まえて設定されていたのに、それを無視して浜辺まで都市化・工業化させたことが、今回大被害を招いた要因ではないかと言う。
唯七郎の見るランク上位はいずれも都市だ。彼は稲荷山宿の惨状を見て、都市化による宿民間の「不人情」=相互扶助の欠如が最大の要因だと見る。
都市化は近世化の一つの指標である。下剋上の可能性を断ち切るための兵農分離を貫徹させて成立した近世国家は、江戸をはじめ全国各地に建設された城下町を見れば分かるように、一挙に都市化を促進して実現した。またその経済維持のため大坂をはじめ流通拠点の都市化も進展した。
元禄文化や化政文化の中心は、大坂・江戸。そんな華の都市論が盛んだが、東日本大震災は、それで良いのかと疑問を投げかける。都市化はもの凄い開発、自然破壊の上に成り立つ。それに木造住宅の林立。大災害の条件が揃っているのが近世都市の特色だ。
慶長以後の大震災・大火・洪水を列挙した時、大半の被災地は都市である。そんな近世災害史研究が進んでいないので、すぐ平安・鎌倉時代の地震・津波に直結させてしまう。都市化=近世化とするなら、リスクの側面を同時に論じてこなかったことへの近世史家の責任は大きいと言わざるを得ない。
[あおき みちお/日本近世史]