• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』185号:福田徳三とは──その人となり(三)  ──関東大震災をめぐって

福田徳三とは──その人となり(三)  ──関東大震災をめぐって

金沢 幾子

「私は災後第3日箱根を発して東京まで徒歩と露営の4日をつづけ、わずかにさつま芋の若干片と一瓶の水とに飢渇を凌ぎつつ、小田原、横浜の惨状を視察し、帰京後江東の各所に彷徨し、被服廠跡はじめ隅田川岸に累々たる焼死、溺死の屍体を見、私の生まれた所はさらなり、育った所、幼時嬉遊した所、通学した小学校、そのいずれも何の跡形もなく焼け失せた光景を見た時は、私はただ茫然自失するのみであった。」──これは『司馬遼太郎が語る雑誌言論100年』(中央公論社、1998年)が引用した福田徳三の「復興日本当面の問題」(「改造」10月号)の一部である。
1923年9月1日、福田は箱根強羅館の二階において『流通経済講話』の価格論を執筆中。右手にペン、左手に原稿用紙を持ったまま崖上の芝生まで駆け下りたという。一方、東京商科大学の学生中谷芳郎は、福田夫人に頼まれて福田の探索に出かけ、陸路は無理なため横浜から貨物船に乗り、静岡経由で強羅に着いたが、福田は既に発った後であった。中谷が師に再会できたのは、福田が先の「復興日本当面の課題」を書き終えた15日である。
10日からは、東京市政調査会の依頼により、杉本栄一や中山伊知郎、学生を率いて罹災者実地調査を行った。
16日に虐殺された大杉栄らの記事が報道されたのは20日からであったが、福田は26日「虐殺者と其の曲庇者、讃美者」を執筆、一部伏字で10月1日発売の『改造』に掲載された。
また、改造社の山本実彦が旧黎明会会員を中心に呼びかけた震災復興にあたる会合(福田が 「23日会」と命名)において失業救済、火災保険を検討した。同会は大杉事件について総理や陸軍大臣に建議書を提出、朝鮮人虐殺事件についても決議書を作成した。
神田一橋にあった東京商科大学は、大半が焼失震破されたが、図書館に保管中のメンガー文庫やギールケ文庫は厄災を免れた。福田は9月30日よりこの二つの文庫のために徹夜の警備をし、校内警備のきっかけをつくった。
10月に入ると、長谷川如是閑、大山郁夫らの罹災者救援思想団において、「二枚の着物を持ってはならない」を標語に、衣類、日用品、寄付金を募集し罹災者に配給する活動に加わった。
中旬からは東京市役所調査課の依頼により、芝離宮および芝公園内のバラック調査を商大生を以て実施し、社会教育課の依頼で職業調査も行った。約百名の学生を数班にわけ、巻きゲートル姿で調査カードを持っての聞きとりであった。
福田は「災後の東京は到底私に静坐執筆は許さない、否其れは一の罪悪だと感ぜしめたのであります」と記したが、震災から三カ月の間、震災に関し既出のほか以下の論を書いた(執筆順10月~翌2月掲載、大半は『復興経済の原理及若干問題』 同文館、1924年に収録)。
「経済復興は先づ半倒壊物の爆破から──『生存権擁護令』を発布し私法一部のモラトリウムを即行せよ」「誰か復興の経済計画者たる」「営生機会の復興を急げ」「流通経済の復興と在外正貨の取り寄せ──何故にモラトリアムを発して私権猶予令を出さぬ」「失業火災保険問題」「火災保険金問題について」「経済復興の第一原理」「倒ることの過大観、興ることの過小観──欧州の戦後経済と日本の復興」「失業問題の数的考察」「エコノミック・デモグラフィーより見たる震災前の東京市」「復興経済の厚生的意義」「失業調査と其に基く若干の推定」である。
福田は主張する、「復興事業の第一は人間の復興でなければならぬ」「如何に復興するかよりも何を復興するかが先決」「旧特権、旧利益の打破を」バラックにさえ住めない人々の住宅問題や生業を失った者に対して生存権擁護令を緊急発令すべき、「経済とは畢竟フィヒテの所謂『生きて而して生かしめよ』の哲理の実行に外ならない」
帝国経済会議官制が震災から半年を経て公布、福田は社会部所属として任命され、主に住宅問題を審議する。また、中央職業紹介委員会の一員として同事業の改善をはかる。1924年7月22日に公布された「借地借家臨時処理法」は、福田が主張してきた生存権、生活本拠権の擁護としての住宅立法、営生機会の確保としての失業防止対策の一部が容れられたものである。
[かなざわ いくこ/実践女子大学・短期大学非常勤講師]