実りあるメディア批判のために

奥 武則

いま、新聞やテレビなど既成マスメディアに対する批判は、かつてなく厳しい。東日本大震災とその後の東京電力福島第一原子力発電所の事故が、その大きなきっかけである。未曾有の事態が起きて、人々のメディアに対する「期待」もかつてなく増幅している。その分、「期待はずれ」も大きくなっているということだろうか。
『歴史学研究』第884号(2011年10月号)の「緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学」所載の安村直己「言論の自由がメルトダウンするとき──原発事故をめぐる言説の政治経済学」を読んだ。
安村は、『朝日新聞』を対象に事例を挙げて「原発事故に関し、日本のマスメディアが程度の差こそあれ、東電や政府の発表を垂れ流すだけの広報機関と化している」(傍点、引用者)と指摘している。
「メルトダウン」という言葉をこのように比喩的に使うことに違和感を覚えるが、それはともかく、「ちょっと違うんじゃないの」と思ったことがいくつかある。
個々の指摘は置くとして、基本的に「ちがうな」と思うのは、「鉄の五角形」が原発問題に関する言論の自由を制約しているという理解である。「鉄の五角形」は、政・官・財・学・マスメディアによって形成されているという。
むろん、この観点は安村のものだけではない。むしろいま東電福島第一原発事故の報道をめぐって語られるマスメディア批判に共通すると言っていい。
この文脈で「大本営発表」といったフレーズが使われることもある。いまのマスメディアは、日本軍の戦果(被害)について大本営が発表するウソをそのまま垂れ流していた戦時中の新聞と同じ、というわけである。
しかし、『朝日新聞』を含めた日本のいまのマスメディアは、本当に「東電や政府の発表を垂れ流すだけの広報機関」に化しているのだろうか。
「鉄の五角形」が原発問題もめぐる言論を支配しているというのは、事実に即さない一種の「陰謀史観」ではないだろうか。「陰謀史観」は自らに都合のいいことしか見ず、事実についても恣意的な解釈を重ねる。
東電に情報隠しや公表の遅れがあったことは確かだろう。政府の発表にしても、事態と予測双方に関して過少評価したものが少なくなかっただろう。理由はともあれ、批判に値する。
だが、新聞などマスメディアは東電や政府からあるモノゴトについて発表があれば、まずはその中身を報道する。この二者は圧倒的に重要な「当事者」なのだから、これはメディアとして当然果たすべき役割である。
むろん「垂れ流し」という批判には、そのまま報道するだけでなく、批判すべきはきちんと批判しなければならないということが含意されているだろう。だが、東電や政府の重要な発表があった際には、『朝日新聞』などには、必ず相当にボリュームのある解説記事が載っている。その他、東電や政府の「失策」を具体的に批判したり、検証したりしている記事はいくらでもある。
たとえば、『朝日新聞』7月12日朝刊第三社会面は全面を埋めて東電の「情報隠し」について検証している。そのリードは言う。
《東京電力などの公式発表を伝える報道に対し、旧軍部が不都合な情報を隠した「大本営発表」に追随した太平洋戦争時の報道に似ているとの批判も出ている。震災から四カ月を機に、原発事故をめぐる朝日新聞記者の取材現場をたどった》。
「検証」の具体的な中身はふれられないが、ここにみられる「自己懐疑」の姿勢は、「あるべきジャーナリズム」の基本だと私は考える。
拙著『メディアは何を報道したか』は、具体的な事例の検討を通じて「あるべきジャーナリズム」を考えたものである。そこでは、戦後占領期の言論空間で起きた出来事や「環境ホルモン」報道、犯罪報道などを論じた(残念ながら、原発報道は登場しない)。
マスメディアに対する批判は健全な社会を営むために不可欠である。それは、ジャーナリズムを鍛えるだろう。拙著の根底にも、こうした当然の認識がある。だが、原発報道をめぐって起きている事態は、どうか。私には、決まり文句によるマスメディア批判の大合唱ばかりが聞こえる。
[おく たけのり/法政大学教授]