福島自由民権と8 一本の煙突

西川 純子

2009年10月、冬の訪れを前に北海道へ行った。雲が重苦しく垂れこめて今にも雪が降り出しそうな空知平野の真ん中に一本の煙突がポツンと立っていた。空知集治監の跡である。赤レンガ造りの何の変哲もない煙突だが、これを囲んで典獄の生活があり、それと隣接して看守の住む家々があり、高い塀越しに囚人の獄舎が長々と連なっていたことを想像すると、目の前の草原に明治19(1886)年の監獄の光景が浮かび上がってくる。ここには最も多い時で三千人の徒刑囚が収監されていた。煙突から少し離れたところには立派な墓が二つ並んで立っていた。左は河野広躰が獄中で亡くなった原利八のために建立したもので、右は無縁仏となった囚人の合葬の墓である。墓前には誰が手向けたか綺麗な花が供えられていた。
三笠市の博物館では、「三笠のあけぼの」というテーマで空知集治監の資料が展示されていた。冒頭の説明パネルでは囚人の三笠に対する貢献に最大の賛辞が捧げられていた。三笠にはと呼ばれていた頃から官営の炭鉱があった。幌内炭鉱が労働者集めに苦労しているのを知って市来知を監獄用地として選んだのが、空知集治監の初代典獄となった渡邊である。渡邊典獄は炭鉱だけではなく、市来知周辺の開墾や水道・道路の敷設のために囚人の労働力を惜しげなく使った。茂次郎たちが労役を始めた明治20年には、空知集治監の囚人1966人のうち外役に従事したもの1578人、そのうち791人が炭鉱に、560人が開墾耕作に、44人が土方に、11人が木挽に、172人がその他の作業に配置されていた(寺本千名夫氏作成の表による)。炭鉱の労働がいかに危険なものであったかは、死者と怪我人の数から明らかである。明治18年から25年の8年間に、幌内炭鉱での囚人の死者は108、廃質者34、怪我人の延べ数は7715であった(小池喜孝『鎖塚─自由民権と囚人労働の記録』現代史資料センター出版会、1973)。政府はこのような実状を見逃すどころか、むしろ奨励していた。囚人は兇徒なのだから人間扱いをする必要はないというのが藩閥政府の基本的な考え方であった。生きている限り働かせて、挙句に死んでしまえば国費の軽減になるという意味で、囚人の外役は一石二鳥の政策だったのである。この政策を提言したのが、明治憲法の草稿作成者として名高い金子堅太郎であったとは恐れ入る(夏堀正元『明治の北海道』岩波ブックレット、1992)。

特赦
集治監で7年目の冬をしのいだ明治26(1893)年3月、茂次郎は鯉沼とともに特赦によって出獄することになった。津軽海峡を渡って青森に到着した二人を待ち受けていたのは、駅から12、3丁ばかり騎馬と人力車を連ねて歓喜する人々であったという(佐藤十四五「門奈茂次郎の手紙」会津喜多方文芸協会『考現』5号、1975年8月)。
鯉沼は故郷の栃木県に向ったが、茂次郎もこれに同道したのは、栃木町の榊原家に妹が嫁いでいたからである。義弟の榊原は加波山事件の裁判で鯉沼たちの弁護人を務めた人物であった。茂次郎は榊原の助けを借りて、空知に残してきた同志のために議会宛の特赦請願書の作成にとりかかった。請願書は「天皇陛下ノ隆盛ナル去ル二十二年憲法発布ニ際シ国事ノ犯罪者ヲ大赦セラル然レトモ彼ノ加波山事件ノ犯者ニ至リテハ常事犯タルヨリ其恩命ニ浴スル能ハス実ニ痛悼ノ至リト云ウ可シ」と述べてから、「然レトモ其至誠ハ国民ヲシテ大ニノ衷情(憐れみの情)ヲ喚起シ其特赦請願書ノ国会議場ニ出ルヤ実ニ代議士全数ノ賛成ヲ得テ通過シ又ハ議院ノ建議案トシテ奏上セラルルニ至ル」と、茂次郎たちが特赦を受けるにいたった事情を明らかにしている。これは青森で出迎えた人々を含めて、加波山事件の成り行きに注目し、関係者の一刻も早い釈放を願って行動する人々が少なからず存在したことを示すものであろう。そして今度は茂次郎が率先して、いまだ獄中にある河野、玉水、小林、天野、五十川、草野の釈放を請願する番であった。彼は最後に述べている「願クハ右六名ノ者速カニ特赦復権ノ恩命ニ浴シ候様貴院ニオイテ御認容執奏ノ手順御運ヒ被下度此段伏テ請願及候也」。或いはこの請願が効を奏してか、六人の終身徒刑囚に特赦が下りたのは翌明治二七年のことであった。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]