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  • PR誌『評論』184号:福田徳三とは──その人となり(二)  ──ブレンターノやゾンバルトらをめぐって

福田徳三とは──その人となり(二)  ──ブレンターノやゾンバルトらをめぐって

金沢 幾子

福田徳三は、1898(明治31)5月、ドイツのライプチヒ大学に留学したが、9月にはミュンヘン大学へ転学。終生の師となるブレンターノ教授に就き、経済学、経済政策を学んだ。理論統計学のマイヤ教授に就いた東京帝国大学の高野岩三郎も福田と一緒に受講した。高野の『かっぱの屁』(法政大学出版局、1961)によれば、「マイヤ教授は瘠身長躯であり温厚なる態度をもって諄々として通例むしろ少数の学生を説き訓ゆるふうであったのに反し、ブレンターノ教授は中背の肥り型であり、精悍そのもののやうな風貌をもって、いかなる論敵の説破せざればやまないやうな語調で活気横溢せる講義を行ひ、満堂の多数学生を魅するの趣があった」という。
福田自身も「普魯西嫌ひのブレンタノ教授」(「東京朝日新聞」1919年6月10日)において、ブレンタノ博士は社会主義、軍国主義に反対し、非官僚派の頭目として陣頭に立ち、終始一貫プロシア攻撃に努め、保護貿易主義は国を滅ぼすものとして自由主義を高唱。労働問題が得意で、各国労働者は同盟罷業を起こす際、教授の意見を聞いていた。ミュンヘン大学には正反対な学説のマイヤ教授がいたが、私交上は極めて親密で、両教授の家の何れかを訪問すると必ず何方からかやって来ていたなど、紹介した。また、著書『経済学講義』においては、「ブレンタノは事実的、歴史的研究に勉むると共に、純理の明確さに重きを置き、政策上の態度は旗幟鮮明にして、商業政策に於ては勉めて官僚主義を排して自由任意の団結による組織主義を取る」と記したが、経済学の分野において、それはそのまま福田の学問生活に当たるといってよいという。(種瀬茂「理論経済学」『一橋論叢』34・4)
福田のブレンターノへの傾倒は、こうした学問上の類似にとどまらない。小泉信三は、ブレンターノ教授は茶色の中折帽子に変わった色の背広を着ていた。福田も留学時代は茶色の中折に同じような背広を着、教授にならって自分のサインをフル・ネームで書き、略字のキャピタルだけを書くことはなかった(「如水会々報」101)と伝える。帰国後の授業では学生が「我が師ブレンターノ先生」「ブレンタノ師曰く」なる語を何十回となく聞かされ、福田に「ブレンタノキ」のあだ名をつけた。
1925年再度の訪欧中、福田は当時ドイツ留学中の赤松要、梅田政勝、宮田喜代蔵を伴って、ブレンターノを訪問した。難聴ぎみの福田は、師の話を耳に手をあてて謹聴した。その折の福田の一首は「教え子の大人ぶりたる姿をば教への君にほこるうれしさ」。マイヤ教授をも訪れたが、その老いを痛感した。同教授は訪問後間もなく死去した。
さて、福田はゾンバルトを日本に最初に紹介したが、留学先でゾンバルトの講義を聴いた向坂逸郎は、福田を連想した。(以下、向坂「ゾンバルト教授と福田教授」『改造社経済学月報』1 昭和3年12月の要約)
全体としてった、負けん気の面構、直線的な話方、明快さ、着眼の奇警、機智、博識……。その類似は短所にもあり、話の面白さ、明快さは、単に部分的なもので、その色々の知識の集合にも拘らず、全体の論旨が何処にあるかが見失われはしまいかというような危険、問題の捉え方が極めて奇警、鋭角的で、聴者の興味をぐっと引緊めながら、場合によっては却って独断的な論断が下されはしまいかという危険、問題の提出や解決が極めてよい場合でも、説明の間に余りに多くの自家広告と他人の批評とか混込するために聴講者がはらはらするような場合、このような危険を両者に感じた。また色々な意味において両者が世間の人気者である点についても。向坂は最後にゾンバルトは右傾、反動化しつつあるが、福田がここにおいても類似点を持たぬことを、と結ぶ。
福田の人物像についてこれまで縷々述べてきたが、いまだ測りがたいところがある。ただ一点、学問と教育への熱情の根底には、車谷馬太郎が指摘した sincerity ──その剛毅も涙脆い所もこの泉からった飛沫、江戸っ子の侠気もその一角ででない──とするシンセリティー (「真実の人、福田先生」『如水会々報』79、1930年6月)があることは疑い得ない。
[かなざわ いくこ/実践女子短期大学非常勤講師]