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  • PR誌『評論』181号:福島自由民権と門奈茂次郎5 加波山事件

福島自由民権と門奈茂次郎5 加波山事件

西川 純子

小川町の爆弾騒ぎで宇都宮の県庁襲撃計画は一頓挫をきたした。自由党の一部に不穏の動きがあることを察知した官憲が9月15日に予定されていた県庁開庁式を延期したうえで、逃走した河野、小林、横山の行方を追い始めたのである。12日に鯉沼九八郎が爆弾製造中に大怪我をしたことも悪い兆候であった。22日夜、茨城県の有為館に河野たち3人が到着して同志16人が顔をそろえたが、すでに官憲による捜査が迫っていることを知り、座して捕縛を待つよりはと、爆弾百個あまりを具足櫃に入れ、少しの食料を持って加波山に移動することになった。
加波山では山頂の神社に陣取り、のぼり旗を立て、檄文を参拝者に配布した。「抑々建国の要は衆庶平等の理を明らかにし、各自天与の福利を全ふするにあり。政を為す者は宜しくこの趣旨に基づき、人民天賦の自由幸福を増進すべくして、濫りに苛法酷律を設け、圧逆を施すべきものにあらざる也。然り而して方今我国の形勢を観察するに、外は条約未だ改めず、内は国会未だ開けず。為に姦臣政柄を弄し、上聖天子を蔑如し、人民に対し収斂時なく、餓_道に横はるも之を検するを為さず。言路を壅蔽して志士を逆遇す。此の如くにして尚ほ数年を経過せば、国運の前途将に図られざらんとす。吾人豈に黙して止むべけんや。夫れ大廈の傾ける一木の能く支ふる所に非ずと雖も、志士仁人たるもの坐して其倒るを看るに忍びんや。故に我輩同志茲に革命の軍を茨城県真壁郡加波山上に挙げ、以て自由の公敵たる専制政府を転覆し、而して完全なる自由立憲の政体を造出せんと欲す。嗚呼三千七百萬の同胞兄弟よ、我党と志を同ふし倶に大義に応ずるは、豈に志士仁人たるの本分に非ずや。茲に檄を飛ばして天下同胞兄弟に告ぐと云爾」(『自由党史』下)。誰が書いたのか、情理を尽くしたこの檄文には、暗殺や一揆に批判的だった茂次郎といえども一字一句に賛意を表したに違いない。

暗殺計画の失敗
もとより、16人の武装蜂起に勝ち目があるはずはなかった。横山信六はすぐにも山を下りて、栃木県庁の開庁式に改めて備えることを主張したという。しかし、平尾八十吉(栃木)が加波山を拠点に天下に檄を飛ばして同志を集めようと提案すると、大勢はその方に傾いた。ある者は峻険な岩山に砦を設け、ある者は外に出て麓の町屋警察分署を襲って官金を奪い、さらには豪商中村家に押し入って政府転覆のための軍資金を調達した。食料がたちまち不足して、加波山上の篭城は三日ともたなかった。24日夜半、一行は宇都宮を目指して山を下りはじめる。新たな目標は栃木県庁舎の襲撃であった。しかし、そこに至るには警察の厳重な包囲網を突破しなければならず、この間に平尾を失っている。爆弾を運んでいた人夫が忽然と消えたのも痛手であった。26日早朝、辛うじて逃げ込んだ栃木県芳賀郡小林村の山中で合議の末、宇都宮行きを断念してひとまず解散し、東京に潜行して再起を期すことになった。
一行は所持金と残りの爆弾を等分に分け合い、10月15日に東京の飛鳥山で再会することを約して解散したが、26日夜には早くも天野市太郎(福島)と山口守太郎(福島)が捕まり、28日までに杉浦吉副(福島)、河野広躰(福島)、三浦文治(福島)が捕まった。10月に入って、草野佐久馬(福島)、横山信六(福島)、保多駒吉(茨城)、小林篤太郎(愛知)、琴田岩松(福島)、小針重雄(福島)、玉水嘉一(茨城)、五十川元吉(福島)、富松正安(茨城)が次々に逮捕され、最後に福井に落ちのびた原利八(福島)が年を越えて2月に逮捕された。原の逮捕を待たずに早くも一〇月末には加波山事件が立件され、以上の15名に門奈茂次郎、鯉沼九八郎、大橋源三郎、佐伯正門を加えた19名が起訴された。茂次郎は事件の間中、小川町署に拘留されていたのだからアリバイはあったが、小川町質屋押し込み強盗と事件との関係を問われたのである。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]