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  • PR誌『評論』177号:『経済学は会話である』を紐とけば ──科学哲学、レトリック、ポストモダンの視点から経済学を再考する

『経済学は会話である』を紐とけば ──科学哲学、レトリック、ポストモダンの視点から経済学を再考する

後藤和子

昨年来の金融危機は、金融政策のみならず、その拠り所としての経済学への挑戦であるといっても過言ではない。巨大化しグローバルに暴走するモンスターをコントロールする有効な処方箋はいまだに模索の途上である。こうした状況を前に、経済学とは何だろうかと改めて考えてみる契機を提供するのが、A・クラマーによるspeaking of economics(日本語訳『経済学は会話である』)である。
経済学者を自認するみなさん、あなたの会話が如何に奇妙かを考えたことがあるだろうか。経済学者が経済学語で日常生活を説明すれば、例えば、スーパーマーケットで洗剤を買っている女性に向かって「あなたは市場で交換を実現したのです。ある制約条件の下で、あなたはあなたの選好満足度を最大化したのです。」と言うようなものである。経済学者の思考と会話は、社会学者のそれと大きく異なるだけでなく、政治家や実業家のそれとも大変に異なっている。経済学の様々な学派がお互いに会話できないことも、よく知られたことである。ゲーム理論の会話は、法と経済学の会話とは全く異なるのである。
また、経済学者が操る経済学語は、日常的に使われる言葉とも全く異なる。経済学者が市場について語るとき、彼らはその概念を、普通の人とは異なるもっと複雑な意味で(すなわちそれを一般均衡、弾力性、パレート最適等と関連させて)使っている。経済学者は長い時間をかけて、それを習得したのである。学生が経済学の様々な概念を学ぶのは、こうした会話の仲間入りをするためである。
アカデミックな世界に入るためには、その世界の適切な文献を読み、適切な人々を知り、複雑な概念を使って、他の人々の会話に貢献しなければならない。アカデミックな世界では、人々は論文を書き学会で発表し注目されるように努めるが、本当に注目を集められる学者はごく一部である。
クラマーは、『経済学のレトリック』で著名なD・マクロスキーの盟友であるが、彼女と異なるのは、「会話」という独特の概念を使って、日常生活とアカデミックの違い、経済学と社会学の違い、経済学と政治やビジネスとの違い等を説得的に説明していることである。会話を構成するのは、複雑な概念や論理、事実のみではない。会話の深みには、レトリックと物語の存在がある。人は意識するかどうかは別として、メタファーを使って思考しているのである。
クラマーによれば、経済学はまた、普通考えられているような「科学」ではない。それは、危機を持ち出すまでもなく、未来を予告できないし、信頼できる安定的な実証的結論をもたらさないからである。また、経済学者が現実の経済政策に影響を与えることは、きわめて稀である。経済学者は、絶えず、政策立案者に助言するために招請される。例えば、アメリカの大統領は経済諮問委員会を、ヨーロッパの国々の政府は、経済研究所を持ち、経済学者は中央銀行で重要な位置を占めている。それにも拘わらず、経済学者のアドバイスは、ストレートに適用された試しがなく、しばしば退けられると、クラマーは指摘する。政治家は、具体的な解決策を求めるが、経済学者は問題が何かを語るのを好む。両者が理解し合うことは困難な上に、アカデミックな貢献はしばしば誤って理解されるという審議会の苦い経験をした経済学者は少なくないだろう。それでは、経済学は、政策に対して無力なのだろうか。答えは否である。それは厳密な経済理論の適用としてではなく、メタファーや概念という別の仕方で現実の政策に大きな影響を与えているのである。
経済学とは、モデルをつくり実証テストをするだけのものではない。本書は、経済学とは何か、経済学者は一体何をしているのかを再考するために、ポパー、ラカトシュ、クーン等の科学哲学を参照しつつ、哲学的な視角から捉え直してみる有用性を説く。経済学の会話とは何か、その深い構造を解き明かすために、レトリックやポストモダニズムにまで言及する本書が、人文科学や社会科学の研究者のみならず、経済学に関心を寄せる幅広い方々に広く読まれることを願っている。
クラマーはアメリカで教育を受け、前著への高い評価により世界初の文化経済学教授として母国オランダに呼び戻された経歴を持つ。1998年のバルセロナでの国際学会以来、筆者の先生であり親しい友人でもある。感謝を込めて彼に邦訳を捧げたい。
               [ごとう かずこ/埼玉大学経済科学研究科教授]