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  • PR誌『評論』176号:思い出断片 (11) 海軍予備学生だった頃

思い出断片 (11) 海軍予備学生だった頃

住谷一彦

私の人生のなかで、全く異質な経験、およそ異なった時間と空間の世界、が展開された一時期がある。それは私が海軍予備学生としての訓練を受けた旅順での三カ月半の歳月である。
昭和19(1944)年徴兵年齢が一歳繰り下げられて満20歳から満19歳となった。その結果私は旧制松山高校二年のときに、本籍地の群馬県高崎市で徴兵検査を受けることになった。当時の交通事情は最悪であったが、弊衣破帽にマント姿、高下駄という当時の高校生スタイルで四国の松山からはるばる群馬県高崎市にあった高崎旅団まで出かけた。このスタイルは高崎ではよほど異様だったらしく、町の人々から至るところでジロジロと見つめられた。もちろん検査地の兵営内でも同じだった。ただ、検査のときは向こうの要求どおりにしたので、どうということはなかった。しかし、私は陸軍の一兵士となることには嫌悪感があり、帰りの汽車のなかで徴兵の赤紙が来たら、海軍を志願しようと思った。当時陸軍は徴兵だが、海軍は志願制だったのである。しばらくして昭和20年3月に徴兵の赤紙がとどいた。私はそれをみて、ためらうことなく海軍予備学生を志願した。私は少年の頃神戸で観兵式があり、父につれられて(父の友人が航空母艦の艦長をしていたので)はじめて軍艦に乗ったのである。そのときの感激がずっと心に残っており、このときもそれが私に陸軍より海軍を選択させたのだった。
志願の受付地は岩国だった。岩国は私の住んでいた四国の松山からも近かったので助かった。私は今でも覚えている。私と同じような気持ちで志願した高校や高専の学生がかなりいて、すぐ友達になったことを。ところが、私たちはてっきりそこで訓練を受けると思っていたのに、翌日すぐに列車に乗せられて岩国を発ち、下関から船で玄界灘を越え、朝鮮の釜山に着いて、また列車で北上した。そのうちに鴨緑江を越えて満州に入った。奉天では満州日々新聞の新聞記者をしていた叔父の住谷申一に会うことができた。奉天から列車は一路南下して大連から旅順に向かった。この間に見た満州の大平原は今でも眼に焼きついている。およそ山のみえない大平原の彼方に消えてゆく落日の夕陽の赤さ、その照り返しで燃えるように赤くなった雲、その大平原に放し飼いされている子牛のような大きさの豚、黒豚。私たちは窓にむらがって初めて見る光景に好奇心の眼をかがやかせたものであった。
旅順における訓練は苛烈きわまるものであった。全員ハンモックの生活だったが、そこで寝るのには或るコツがいり、それに慣れないと放り出されることがあった。ハンモックをたたむのも要領があり、キチッと床に垂直に立てられず、ぐにゃっとなったときにはハンモックをかついで練兵場一周だった。私などその悪い方に入っていて、よくハンモックをかついで一周させられた。一番こたえたのはボートをこぐ訓練で、二〇三高地を背面にみて勃海湾の三角波を漕ぎ抜けるのは大変な労働だった。私たち第四分隊の分隊長町田教官は東京文理大卒の予備学生出身だったが、仲々厳しかった。筆まめな父はよく手紙をくれたが、それには戦争は間もなく終わり平和が来るから待つように等と書いてあって、そのたびに私は町田教官に呼ばれて、「お前の父はどんな人か」と問いただされ、最後は「マタ開け」で頬を拳固でなぐられた。ひどいときは25回もなぐられ、今でもアゴを動かすと、アゴの骨がコキコキと音をたてる。
旅順での訓練が激しかった理由は、あとでわかった。私たちは三カ月半の訓練で特攻隊に仕上げられなければならなかったのである。面白いことに日本の海軍はイギリスの海軍がモデルで、そのうえ各国を訪問する一種の外交使節でもあったからか、生活様式はイギリス風で洋食の儀礼も、ナイフとフォークの使い方も教えられた。旅順は日本本土と異なり、B29の空襲もなく、その点のんびりとして居られた。
7月下旬内地への帰国命令が出て、ほぼ全員が特攻隊を志願した。ひとりずつ一歩前に出るかたちなので、私も内心はたじろぐものがあったが、一歩前に出た。何人か志願しない者がいたが、残った者は、あとで聞いた話だが、ソビエト軍が侵入したとき全員シベリアにつれて行かれ、消息を絶ったということだった。人生には運命の岐路というものがあるとつくづく実感した次第である。
[すみや かずひこ/立教大学名誉教授]