ストロング・デモクラシーへの道

竹井隆人

ストロング・デモクラシーへの道
竹井 隆人

本年、選挙戦で地滑り的勝利を収めたバラク・オバマが黒人初の米国大統領に就任したことは、人びとを熱狂の渦に巻き込み、一時、世は騒然となった。けれども私はその狂騒振りをいささか「はしゃぎ過ぎ」ではないか、と苦々しく眺めてきた。
疾くから私が承知しているのは、マスコミというものは常に目新しいことを大々的に取り上げる商業資本主義の権化たることだ。しかし知識人、とりわけ政治学者と名乗るほどの人たちが単純にそれに乗じ、あまつさえその先棒を担ぐがごとき振舞いに対しては、かねがね疑念を感じている。他国の政治指導者の就任演説ごときに軽々に感銘を受けたと公言するかと思えば、その就任時の興奮が沈静化するや否や、今度は新政権の我が国経済に与える影響如何や、その対東アジア戦略が中国重視に傾斜する危惧などを声高に語る輩の多さには閉口してしまう。ましてや、肝心の自国の政治指導者に対しての、憧憬どころか罵詈中傷のはなはだしきは目を覆うばかりであり、現宰相に替わる次期宰相には誰彼が相応しいといった言説がしばしば弄されるが、いざ、その意中の人物が後継者ともなれば、今度は当のその人物を激しくコキ降ろす様を見るにつけ、とんだマッチポンプに興じているようにしか映らない。
しかし、そもそもデモクラシーとは人びと自らが政治を担うのが本義であることからすれば、自国の政治指導者はおろか他国のそれまでに過剰な期待を寄せ、その如何によって社会の改善を夢見ること自体、すでに矛盾を孕んでいよう。おそらく米国政治学の泰斗たるベンジャミン・R・バーバーも、独裁や専制にさえ通ずるこの他律的支配に染まる現代デモクラシーの虚偽性を憂い、それと異なり、あらゆる人びとが社会に自律的に関わることを意図した「ストロング・デモクラシー」を四半世紀もの間、提唱してきたのであろう。
よって、バーバーはクリントン元大統領(民主党)の助言者だったことを自認し、ブッシュ前政権(共和党)による他国との伍し方を批判してきたがゆえに、今回のオバマ新政権(民主党)の樹立を歓迎する向きはあるのだろうが、世間におけるその加熱振りを深く戒めているように見受けられる。たとえばオバマの「話す力」に、米国史を塗り替えた、との賛辞が盛んに贈られているが、バーバーは『ストロング・デモクラシー』にて、スピーチは相手の胸中を忖度せぬ「万人の万人による闘争」の一手段とも断じている。彼のいう「ストロング・デモクラシー」では現代の代議制デモクラシーと異なり、あらゆる人びとの政治への直接参加を前提とする、人びと自らが政治家たるための「聴く力」がより重視される。オバマにしても、その備わった稀有な政治的センスは、敵対勢力が次々に彼を支持していったことに見るように、異論を許容しつつ政治的合意を手繰り寄せる「聴く力」にこそある、ともいえよう。
この政治的合意とは、拙著『社会をつくる自由──反コミュニティのデモクラシー』(ちくま新書)に詳述したが、わが国で多用される「コミュニティ」なる「仲良し主義」とは似て非なるものだ。リベラルを論難するバーバーをコミュニタリアンの一翼と見る向きもあるが、むしろ、彼は対面式のベタベタした相互交流による「コミュニティ」を斥けている。スピーチが何やら抗し難い「コミュニティ」を醸成してしまい、それらが人びとを呑み込んでしまうのならば、それらは人びとを政治なるものからますます遠ざける、デモクラシーにとっての「敵」に他なるまい。
バーバーが「ストロング・デモクラシー」のために志向したのは、住民総会の全米規模での実施であり、私はその我が国での実践策として、分譲マンションにおける管理組合の如くあらゆる居住区に「私的政府」を設置する「集合住宅デモクラシー」の実現を提唱してきた。ともに目指すのは、こうした「究極の地方分権」により、人びとの日常生活に政治的実践が備わることであり、そこで人びとが異論にも耳を傾ける「聴く力」を練磨することで、自らが政治的責任を身に付けていくことでもある。それは冒頭に記した如きマスコミや知識人が流布する「責任なき言説」に人びとが背を向け、自らが政治を真に担っていく「ストロング・デモクラシーへの道」を照らし出していくこととなるであろう。
[たけい たかひと/政治学者]