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「ニューディール」再考 その3  財政出動と独占規制

西川 純子

1937年秋の頃から、ニューディール政策によって回復軌道に乗るかにみえたアメリカ経済は急激に悪化した。10月19日は株式市場にとって大恐慌以来最悪の火曜日となった。異変にいち早く気づいたのはヘンダーソンである。彼は3月に「ブームと破綻」と題するメモを書いて、六か月以内に景気が下降局面に入るだろうと予言した。企業が設備投資を控えるなかで政府が財政支出を制限すれば、景気は下降するほかないというのである。5月にはカリーが「財政はあまりにも早く均衡にもどろうとしてはいないか」と、批判の矛先を財務省に向けた。
財務長官モーゲンソーが第二期ローズヴェルト政権のもとで均衡財政に舵を切ろうとしたのは、財政赤字が企業家の投資意欲を減退させていると信じたからである。政府による「呼び水政策」を続けるよりは企業が自主的に設備投資を行う環境を整えるべきであり、そのためには企業減税もいとわないというのが彼の立場であった。モーゲンソーの傍らにはホワイトがいたが、彼は上司をさしおいて外部に向かって発信するよりは、もっぱら財務省の内部で政策を具申していた。財務省として守るべき原則は均衡財政に違いないから、彼がこれに反論する余地はなかったであろう。しかし企業減税については、ホワイトは反対意見を唱えていた。
ヘンダーソンとカリーの予言は不幸にして的中したが、これを可能にしたのは、経済分析に必要な統計資料を省庁の壁を越えて相互に交換する情報ネットワークである。その中心にいたのはルービンであった。ルービンは労働省に所属していたが、彼が作り出す統計は正確無比、統計にうるさいミーンズもルービンの腕前には脱帽していた。ルービンが提供した資料には、1937年初頭から生産と雇用と賃金が下降し、逆に物価が上昇に転じていることを示す数字が並んでいた。
不況なのに物価が上昇するのはなぜだろうか。ミーンズは、市場に代わって独占的企業が価格決定力を握るようになったからだと説明した。市場の収縮を企業は生産の抑制によって切り抜けようとする。この結果、生産物の価格が上がり、賃金と雇用は低下してさらなる消費の減少という悪循環を招くのである。独占的企業というとき、ミーンズがあえて金融産業を除外していることは、彼を有名にした1932年の企業分析が金融を除く200社に対象を限定していたことと無関係ではないであろう。しかし、これでは金融勢力が初期ニューディールの金融規制によって封じ込められてしまったかのような誤解を招いてしまう。
コーコランとコーエンは金融規制立法を推進した中心人物だったが、規制が金融勢力を駆逐するほどの効果をあげたとは思っていなかった。彼らは金融規制が不十分だったから新たな不況が起こったと考えたのである。当時出版されたばかりのF・ランドバーグの著書『アメリカの60家族』は、ニューディールのもとでも金融と産業の癒着関係は変わらないと指摘してローズヴェルトを批判していたが、コーコランとコーエンはこの本をむしろ味方にして、銀行業務と証券業務を分離しても金融勢力は一向に衰えていないことを訴える材料に使った。これを援護してヘンダーソンは新たなメモを書き、大銀行と企業が一体となって不況を作り出していると述べた。
カリーは不況の原因だけではなく、不況を克服するための政策論に切り込んだ。彼が書いた「不況の諸原因」と題する小論は、国民の購買力を引き出すために政府は一刻も早く支出増大に転換すべきであると結んでいた。この論文に目をとめたのがH・ホプキンズである。
チャンスは11月8日にやってきた。ホプキンズの仲介で、カリー、ヘンダーソン、ルービンの三人が、大統領に面会することになったのである。彼らの話をローズヴェルトがどれだけ理解したかは分からない。しかし、これを機にローズヴェルトにモーゲンソーの均衡財政に対する疑いが芽生えたのはたしかである。その意味で、この会見はニューディール政策転換の発火点になったといえる。
1938年3月25日、株式市場はふたたび崩壊した。しかし、大統領はまだ迷っていた。決断を下さぬままにジョージア州の別荘へ出かけてしまった大統領を追いかけて、ホプキンズは再度説得を試みる。このとき彼が帯同した提言書は、ヘンダーソンが主導して作成したものである。提言には第一に、政府支出を復活し内容を見直すこと、第二に、独占的大企業の実情を調査するための委員会を設置することが盛りこまれていた。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]