格差社会にいかに対抗するか

杉本 貴志

東京地裁は9月14日、日本郵便が正社員には与えている「年末年始勤務手当」「住居手当」「夏期冬期休暇」「病気休暇」を契約社員に全く与えていないのは違法であるとして、賠償を命じる判決を下した。日本郵便で働く人々のおよそ半数、19万人が非正規労働者であるというから、判決がもたらす影響は直接的なものだけでも相当大きくなるだろう。それにしても、誰もが知る大企業であってすら、フルタイムで同じような業務に従事している人々の一方には夏休みや病気時の休暇制度が整備されているけれども、別の一方の人々にはそういうものが全く存在しないという事実に、あらためて慄然とした人が多いのではないか。
その2週間後、国税庁は2016年の民間企業の平均給与を発表したが、ここでも正規と非正規の格差は著しく、しかも拡大している。役員を除く正社員の平均給与が486万9千円であるのに対して、非正規社員は172万1千円、両者の格差は314万8千円にもなるのである。もちろんこれは労働日数や労働時間、職務内容などの違いを一切捨象した数字であるが、そうした違いを受け入れざるをえないという状況が存在することを含めて、正規・非正規の格差問題は現下の日本における最大の問題だと言っていいだろう。男女の格差はもちろんのこと、男性労働者であっても35歳未満ではいまや4人に1人が非正規労働者となってしまった。日本の社会には、はっきりと区別される「二つの国民」が存在するのである。
ここまで拡大してしまった格差の問題は、その社会が競争社会である以上、われわれが必然的に抱えざるをえない問題である。高度経済成長による所得倍増であるとか、所得再分配による福祉国家づくりであるとか、この問題を緩和するための方策が20世紀にはさまざまに講じられてきたけれども、21世紀の日本では、そのいずれもが過去のはかない夢物語と言わんばかりの扱いをされている。もはやかつてのような経済成長は見込めない……。福祉国家の破綻は明らかである……。そんな言説が飛び交う中で、われわれはどこに格差問題解決の糸口を見出せばいいのだろうか。
そのヒントは、競争経済=資本主義のシステムが確立し、究極の格差社会が到来した19世紀に、当時の人々がそれにどう対抗しようとしてきたか、その営みの中に求められる。
さまざまな身分的な制約や規制措置により経済活動が自由に行えなかった時代が一変し、経済的利益の追求こそが社会全体を豊かにし、人々の福利厚生を増大させるのだとして、競争が社会の全面を覆いつくし始めたのが19世紀前半、産業革命が進行するイギリスの社会である。それは世界の工場たるイギリスを世界の盟主にふさわしい富裕な国家とすると同時に、経済的自由競争提唱の祖ともされるアダム・スミスが想像もしえなかったほどの絶望的な貧困を都市労働者とその家族にもたらした。この当時の地方の富裕層と都市の貧困層のあいだでは平均寿命にして三倍もの開きがある。安定した職にありつけず、失業の恐怖に常にさらされていた労働者たちは、ただ収入が低く不安定であるというだけでなく、それに伴うさまざまな生活上の不安、不便、圧力、放置、疎外、貧しさを経験していた。
日本でいう六畳ほどの部屋に十数人の家族が押し込められた住環境、水道等の劣悪な衛生設備、悪徳商人による不正にまみれた商行為の犠牲となる買い物、その結果としての貧しく不健康な食生活、貧困層には一切のアクセスを許さない教育制度等々、乳児に酒を飲ませて夜泣きを止めるような行為を平気で行うような、今日からすれば想像を絶するほどの無知と貧困が下層の人々に広まったのである。理屈ではともかく、現実として自由競争は全般的富裕ではなく格差と貧困をもたらしているではないか。こう考えた人々の中で生まれたのが、Socialism(社会主義)と呼ばれる運動である。
今日では社会主義というと、政府が主導する形でのさまざまな計画経済体制やそれをめざす思想と運動を指すことが多いけれども、この当時新たに生まれた英単語Socialistというのは、要するに協同思想家として著名なロバート・オウエンに感化された人々、今日でいう協同組合主義の考え方を標榜する人々である。工場経営者として労働者の窮乏をつぶさに観察したオウエンは、自由競争の経済システムこそがこうした窮状を生み出すのであり、これを「協同」を原理とした新しい社会経済システムに置き換えることを説く。そしてその弟子たち、オウエン派の人々は、師の構想を「協同組合」を設立することで実現しようとしたのである。
これが、全世界で10億人以上を組織し、昨年ユネスコから人類の偉大な発明として「無形文化遺産」に指定されるまでに発展した、生協、農協、漁協、信用組合、共済組織等々の協同組合のルーツである。生協で食料品を買ったり、農協に農産物を出荷したり、信用組合で口座を利用したりしている普通の人々からすれば驚かれることかもしれないが、それらの協同組合はもともと格差社会に対抗し、それを克服しようと創始された運動であり組織だったということである。
だからこそ、金融機関へのアクセスが閉ざされることによってますます生活が困窮しかねない人々、競争に敗れた地元の商店が閉店を余儀なくされることで日常の買い物にさえ苦労している人々、同じ仕事をしているのに非正規という雇用身分であるというだけで正規とかけ離れた労働条件を課せられている人々、こうした現代版格差社会に苦しむ人々に対して、協同組合は目を向ける。現代日本の協同組合は、不当な規制や偏見、誤解、何よりも人々の無知・無理解に苦しめられながらも、移動販売車、移動金融店舗、多重債務者対策、同一労働同一賃金制度等々、世の企業をリードする取り組みを次々に展開している。ユネスコによる無形文化遺産指定は、そうした地道な取り組みへの評価として捉えるべきであるが、残念ながら日本においてはそうした情報は一切黙殺され、他国のようにグローバリゼーションがもたらす弊害への救済・緩和策として協同組合促進政策が講じられるどころか、政府が率先して共済潰し、農協叩きを展開するありさまである。
いまこそ、それに対抗する新たな協同組合論を樹立する必要があるのではないだろうか。
[すぎもと たかし/関西大学商学部教授]