• TOP
  • PR誌『評論』
  • PR誌『評論』208号:三行半研究余滴 22 武士の三くだり半──御家人の事例

三行半研究余滴 22 武士の三くだり半──御家人の事例

高木 侃

今回は武士、それも御家人の三くだり半を取り上げる。従来武士には離縁状は不要だという説が多数説であった。なぜなら武士は婚姻・離婚いずれの場合も直参は幕府、陪臣は主君に願・届を出す(実際は組頭・家老)ことで成立したからである。これは正式な手続きであるが、その願・届の前に離縁状が慣習的に授受されることがあったとの見解は高柳真三だけが述べていた。
従前、実名と通り名の複名を持ち花押を加えた離縁状は武士のものと考えられたが、これは誤解で、苗字帯刀を許された名主クラスの豪農のしたためたものであって、なかなか実例にはお目にかかれなかった。
初めて見いだしたのは山形大学附属博物館で米沢藩上杉家(山形県)のものであった。ほかに白石・一関・喜連川・結城藩(宮城・岩手・栃木・茨城県)のものを見いだしたが、私が入手したものは一通のみで、左に離縁状とその返り一札の写真を掲げた(返り一札の左半分は白紙でカットした)。離縁状の用紙はタテ16.2センチ、ヨコ30.5センチメートルである。なお、実例はないが尾張・土佐藩(愛知・高知県)でも離縁状の授受が行われていたという記録がある。
お な か 
其方義、種々存寄ニ不相叶
次第有之、末々難見届候ニ付、
此度離別致し勘当申付候、
就ては諸親類・縁者、且懇意
之向え一切立寄申間敷候、此段
申渡候
  辛未十一月   服部貫一郎
紙幅の関係で読み下し文は省略した。
明治4(1871)年11月、御家人服部貫一郎(54歳)が妻「なか」に交付したものである。判決の申渡し書のような記述で、三行半ではなく、五行半である。
差出人・服部貫一郎は上総国市原郡妙香村(千葉県市原市)郷士若菜起太夫の忰で、弘化4(1847)年11月、服部家に婿入りした。このとき持参金200両のうち半分の100両を納め、残金は文久3(1863)年3月、養父の家督現米80石を相続したときであった。御先手与力、後に御鉄砲玉薬奉行手附などを勤めた。維新後、一時帰農したものの明治3(1870)年に召し返され、駿河国(静岡県)に転居するが、禄は大幅に下げられ、6人扶持であった。
江戸から移転の過程で、妻なかに「種々心得違」があったという。親類方に滞在の妻を呼び戻し、「存分ニ成敗」すると関係文書にあるので、不義をはたらいたものと思われるが、離婚で決着した。これには妻なかからの離婚承諾書(返り一札)もある。
ところで、服部貫一郎が妻なかを離別し、「勘当」したのはなぜか。貫一郎は婿入りし、その後家督を継いで当主になったが、離別しただけでは家付き娘のなかは服部家の者として家に留まる。これをよしとしない夫はなかを服部家から離籍する必要から勘当した。以後、親類・縁者、懇意の者との交際を禁止している。
返り一札を離縁状と比較してみると、同一人の筆跡である。筆まめだった夫がこれを書き、案文の通りにしたためよと、妻方に示したものに違いない。私のみた武士の離縁状六通の内四通に返り一札がある。おそらく武士にあっては、離縁状と同時に返り一札を受理するものと考えられていたのであろう。
武士の離婚手続きにふれる。米沢藩上杉家の事例では、夫安田友弥と妻実家福島掃部はともに代々上級家臣である侍組九六家に属していた。天保2(1831)年10月25日、夫は「悪縁につき」を理由とする離縁状と妻方の離婚を承諾する旨の受取書(返り一札)も書く。離縁状を妻方に渡し、その承諾には持参した返り一札に印だけ捺してもらった。正式な離婚届はこの後でなされる。同日夫は侍組の同僚須田多仲に書状で組頭への正式な離婚届を依頼している。
[たかぎ ただし/専修大学史編集主幹・太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長]