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「ニューディール」再考 その① 七人のニューディーラー

西川 純子

アメリカでニューディール政策がはじまったのは1933年3月のことであるが、それがいつ終わったかは定かではない。ローズヴェルト大統領にとっては、1941年、「ニューディールの老先生」から「戦争勝利の先生」への決意を宣言したときがニューディールの終わりだったのかもしれないが、ニューディーラーたちにとっては、ワシントンに彼らの居場所がなくなるまでニューディールは続いていたのである。ニューディーラーとは、1929年恐慌のような経済破綻が再び起こらないように、ローズヴェルトとともに社会を変革しようとしてワシントンにやってきた人たちのことである。しかし、彼らが志をとげる前に第二次世界大戦がはじまった。
戦争のための準備がニューディーラーの手に負えるものでないことを知っていたローズヴェルトは、自動車や鉄鋼などの産業界からビジネスマンをワシントンに呼び寄せた。ついその数年前まで中立法が幅を利かせていたアメリカには、たちどころに五万機の軍用機をつくる軍需産業は存在しなかったから、ビジネスマンの手を借りて民間の生産力を軍需品の生産に総動員する体制をつくるほかなかったのである。ビジネスマンはワシントンでは「一ドルで働く」ボランティアであった。彼らの生計の面倒をみたのは出身企業であり、政府ではなかったのである。
ニューディールを通してビジネスマンとニューディーラーは激しく対立する仲であった。証券法、公益事業持株会社法、労働法、社会保障法などの諸立法から、果てはTNEC(臨時国家経済委員会)による独占調査まで、ビジネスマンはニューディールによって自由を締めつけられてきたのである。
ローズヴェルトはニューディーラーなしに国家総動員の成功はないこともよく知っていた。戦時生産体制に必要なのは経済の計画化である。市場に介入して生産力と資源と財源を確保し配分することを計画化というならば、それこそはニューディーラーの得意技であった。ローズヴェルトはニューディーラーが試行錯誤して作り出した市場コントロールの制度を戦争遂行のために利用したのである。これは国民の生活を守る社会保障の制度を、戦争によって国民を守る安全保障の制度に切り替えることを意味した。
戦争の需要によってアメリカの経済はみるみる回復した。ニューディールが10年たっても達成できなかった完全雇用が実現したのである。経済復興を実現したのは戦争であってニューディールではなかったという言説が生まれ、ニューディーラーには敗北者の烙印が押されるようになった。対照的にビジネスマンは、戦争経済の立役者としてもてはやされ、彼らの幾人かは抜け目なく戦争後に軍需工場の払い下げを受けて、軍産複合体成立の足場を築いた。 
しかし、はたしてニューディーラーは敗北したのだろうか。戦争がなければ、ニューディールは経済回復を見事に成しとげたかもしれないのである。さもなければ、経済の回復には戦争をするに限るという言説がまかり通ってしまう。
1980年代に入って新自由主義(ネオリベラリズム)が台頭すると、忘れられていたニューディールが批判の対象として注目を集めるようになった。市場万能主義の正しさを証明するためには、ニューディールを徹底して否定する必要があったのである。そして今、市場に全てを任せることの歪みが貧富の格差拡大という重大な結果を生み出している。この格差を埋めるべくトランプ大統領が取り出した秘策は、ビジネスとウォール街を喜ばせる軍拡であった。そして日本にも、防衛力の増強を経済成長につなげようとする勢力がある。
戦争と経済の問題を考えるとき、ニューディールが一つのヒントになるだろうとは以前から考えていた。思案の挙句に思いついたのが、10年ほど前にソルトレーク市のユタ大学でマリナー・エクルズの文書から見つけた一枚のメモである。それはエクルズから調査と政策提言のための委員会の人選を頼まれてラウクリン・カリーが書いたものである。カリーは連邦準備局でエクルズ総裁を支えた経済学者だが、メモには彼がもっとも信頼する七人の名前が記されていた。イザドール・ルービン、ガーディナー・ミーンズ、ハリー・ホワイト、レオン・ヘンダーソン、トマス・コーコラン、ベンジャミン・コーエン、それに彼自身を加えた七人である。このメモを読んでから、私の頭には七人がすっかり棲みついてしまった。
[にしかわ じゅんこ/獨協大学名誉教授]