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服部之總の維新史論  ──松尾章一『歴史家 服部之總』刊行に寄せて

宮地 正人

松尾さんの大著が刊行されたことを機に服部さんの維新史論について私の考えを述べてみたいと思います。
私も今年で72歳になり、戦前に比べ、波乱の少なかった戦後71年も、ほぼ5年単位で変わって来ているとの実感を、つくづく抱いています。その意味では、1868年の明治維新から1945年の敗戦までの約80年間は、維新変革、自由民権、日清・日露、第一次大戦、大正デモクラシー、そして満州事変からの15年戦争期と、戦後には比べものにならないほどの激変をしてまいります。そこでは政治史だけではなく、一般民衆のものの考え方、思想そのものも大きく変わってきたのではないかと私には思えるのです。
ただし、ほとんどのものは変わるたびに、新しいと思われたものが古くなり、より新しいものに取り替えられてきているとは言え、ごく少数のものは年が経つにつれ、その価値が明らかになり、より新しくなるものなのでしょう。大塚久雄さんはギリシャ語には、年を経るにつれ古くなる意味の新しさと、年を経るにつれ磨かれ新鮮なものになる新しさという二つの言葉があるとおっしゃっていました。私は1932年から岩波書店で刊行された『日本資本主義発達史講座』が明らかにした、天皇制と総括される戦前国家構造の特質解明というものは、この種の、年を経るに従って新しさを増し、戦前戦中期の日本の国家・社会・文化を学問的に検討する上でのキーワードだと、これも歳を経るにつれ痛感するようになっています。
往々にして、この『日本資本主義発達史講座』は明治維新論をめぐっての講座だと思われがちですが、全体の構成をみればわかるとおり、発刊された1932年、満州事変そのものをふまえた政治・社会・文化・外交、そして軍事を組み込んだ総体的な、現在進行形の日本資本主義分析そのものになっているのです。
ところで、歴史の分野でも研究者の世代によって歴史意識が変わっていくことは仕方のないことだと思っています。私などの世代は、戦中を少年として体験した松尾さんたちの世代とはちがい、戦後第一世代の研究者と呼ばれています。私は、1970年代半ば以前に歴史研究に入った者と、それ以降に入った者との質的ギャップはかなりなものがあるという印象を持っています。彼らの史学史的区分から言えば、それは「戦後歴史学から現代歴史学への発展」ということになるのでしょうか。私のような戦後第一世代の者からみると、本当にそのように発展しているのかどうか。過去のいい成果、その中には私のこだわっている天皇制という方法論的カテゴリーも入りますが、客観的・理論的な成果をふまえた「発展」になっているのかどうか。必ずしも私にはそうは思えないのです。
歴史学という学問は、過去を扱う学問ですから、決して後知恵で批判してはならない。その段階で何を明らかにしたのか、何が明らかになったのか、言い換えればその対象の時期と時代をあくまでも現代史として扱わなければならない学問だと考えて、私は研究を進めてきました。
服部之總を含めた「講座派」の研究者群を非難する常套的な手段としては、一国史的発展段階論に過ぎないという論があります。しかしながら、研究対象にしている地域や国家のその時点での社会的分業体制の段階を実証的に明らかにせず、その国家の国際関係を論ずることは可能なのでしょうか。しかも日本の場合、ペリーによって鎖国体制がうち破られるまでには相当に発展した鎖国下の非領主的国内分業体制がつくり出されていたのです。この一国史的発展段階の内実を歴史学的に明らかにせず、「成熟した伝統社会」といった非学問的な方法論で維新変革を語ることは、発展ではなく退歩だと私は思っています。
また、一国史的発展段階論の非難の中に、絶対主義とかブルジョア革命といった分析道具は古くさいという言い方もなされていますが、これも私は後知恵の批判だと思っているのです。
私のように、幕末期から明治前半期を実証的に分析しようとしている研究者からすると、当時の知識人は、「遅れたアジアと進んだ欧米」という図式を徹底的に使用していました。マルクス主義者だけがそうではなかったのです。そして欧米における時代区分自身が絶対主義王政からブルジョア革命への移行という二段階の把握でありました。
江口朴郎さんがよくおっしゃっていたことですが、よかれあしかれ、このような学問的前提と欧米がつくり出した学問的道具をもってしか分析することができず、基本的には、アジアに関しては「アジア的停滞論」をもって分析せざるを得ない時代的制約の中に服部之總もいたのだと、私は思っているのです。
「進んだ中国と遅れた日本」という逆説的表現が可能になったのは、1945年、中国の人民革命の成功による、世界史の展開はより豊富なものだという認識が日本の知識人たちに可能になったからであり、それゆえに石母田正さんが『歴史と民族の発見』(1952年)を書くことになったのだと私は考えているのです。
「講座派」とひとくくりにされるマルクス主義者たちの中で服部さんが際立っているのは、第一に、絶対主義成立とされる明治維新の捉え方の極めて柔軟な態度だと私はみています。彼は他の論者と異なり、明治維新を自由民権との繋がりの中であくまでも捉えようとしつづけました。彼が自分の現代史として対象にした1930年代の内在的理解を、この二段階の複雑な絡み合いの中に、その統合の中においてのみ理解しようとしつづけました。今日残念なことに、明治維新を論ずる者の中に民権を論ずる者はなく、民権を論ずる者の中に明治維新を論ずる者はいません。このような現状は服部史学からの発展ではなく明確な退歩だと私はみています。
第二に、「厳マニュ段階論」を提起したことです。羽仁五郎の直弟子を自認する井上清さんは、遠山茂樹さんの明治維新論をハッキリと批判対象に据え、『日本現代史Ⅰ』を1951年に東大出版会から刊行したとき、彼は中国の民族革命をふまえつつ、「経済的・文化的および政治的力量の民族的集中」というカテゴリーを駆使して理論構成をおこないました。これに対し服部さんは、1952年の福島大学経済学会講演において「彼は実はマニュファクチュア論的叙述を行っておるのであります」と断言しています。ただし戦前の服部さんの明治維新論では、民族問題をこのように捉えていたわけではないと私は考えており、井上さんのこの提起が、資本論で服部さんが依拠した「16世紀中葉から18世紀最後の三分の一世紀まで持続した厳密なる意味のマニュファクチュアの期間」という記述のもっていた、その豊富さと多面性をあらためて彼に認識させたのではないでしょうか。オランダ、イギリス、アメリカ、フランスの絶対主義期からブルジョア革命期における民族形成と、国民文化の展開、国民国家の確立という、欧米で最も豊かな政治的、社会的な時代が産業革命以前のマニュファクチュア段階にあったのだという事態は、マルクス主義に関心のある者にとっては過去のものではなく今日的課題でもある、と私は思っているのです。
ところで、通史的把握と通史叙述は、それを把握しようとし、叙述しようとする研究者が、その瞬間立っているその歴史的場からしかおこなうことはできません。これは歴史学の必然です。すべての過去はその場において改めて相対化されます。私は1930年代に言われた天皇制の絶対的支配なるものが必要以上に明治維新と直結され、完結的に説明されすぎたと今日では考えており、絶対主義成立とブルジョア民主主義革命の截然とした二段階論で説明することは、実証的に無理があるという立場に立っています。
過渡期論を理論化するためには、永いスパンをとらなければなりません。日本の中世から近世への移行を1600年の関ヶ原からとるにしても、その完成は1640年代の時期になります。過渡期の40数年間の間に初めて幕藩制国家の最低限の基礎が、朝廷と幕府の関係にしろ、将軍と大名との関わり方にしろ、主従制と国郡制の重層的なありかたにしろ、鎖国という国際政治の枠組み形成にしろ、つくられていきました。その意味では、時間をかけつつ精緻でガラス細工のような国家構造が近世成立期に作られていったわけです。
この芸術作品ともいえる近世幕藩制国家がペリー来航によってゆり動かされた後は、マニュアルのないまま、万国対峙が可能な国家と社会の形成の過程に突入しました。それは1871年、廃藩置県で一段落するのではありません。廃藩置県は1880年代まで続く過渡期の中のもっとも過渡的段階にあったのではないか、ペリー来航の1853年から国会開設を約束せざるを得なくなった1881年までをひとくくりにして幕末維新変革を理解できないものかと、今考えている最中です。そしてその検討の際、服部之總は種々の論点をどのように位置づけ、どのように評価し、いかに批判していたのか。ひとつひとつ確認していくことが今日的段階においても、もっとも生産的な方法ではないだろうか、このように私は考えているところです。
[みやち まさと/日本近代史]