閉店間際の大売り出し

武田 晴人

「研究生活をふりかえって何か」という執筆依頼を受けた。何かもう店仕舞い時ですと宣告されたようで寂しい気分になる。せめて「定年退職を迎えて一筆」とでも言われるなら救いはある。それなら通過点と受け止めて考えを巡らせることもできる。とはいえ、こんなことに過敏に反応するのは、私がそれなりに年齢を重ねて、閉店を視野に入れなければならなくなっているからなのだろう。若いころには、還暦を過ぎた「大先生」たちは、研究者としての鮮度を失っていると思っていた。例外は何時でもいるけれど、一般的には、あまり論文も書かないなど研究に意欲的とは見えなかったからだ。誤解していたのかもしれないが、自分がその年になってみると、ずいぶんと風景が違う。もちろん、今の若手からは、私が40年以上前に思っていたのと同じように私の姿が見えているかもしれない。そうでなければ、こんなエッセイの依頼も来ないだろう。
確かに、研究の集大成として、これまで書き散らかしてきた論文を、いくつかのテーマにまとめる在庫整理をしたいという願望はある。まとめたところで、売れる見込があるわけではないが、整理のブレーキになっているのは、そこにどんなメッセージを込め、読者に届けることができるのか、30年以上の経過のなかで、新しく生まれた研究なども受け止めながら、何を書くのかの見極めもつかないこと。論文のテーマの整合性や研究の完成度などを考慮せずに、あれもこれもと抱き合わせ販売するような在庫整理は、買い手に失礼だと言い訳しながらも、実のところは「あきらめが悪い」のである。しかも、あたためている研究課題への挑戦にも未練を残しているから、一層始末が悪い。ただ、頑張るつもりはないけれど、そして急ぐつもりもないけれど、あきらめるつもりもない、というのが正直な心境。
在庫整理が進まない理由のもう一つは、若いころの仕事の仕方に由来している。「頼まれた仕事は断らないこと」、それが学術研究という、あまり社会に役に立たないように見える仕事を職業にすることのできた者の最低限の義務だと考えていたからである。だから、いろいろな共同研究に参加して分担した特定のテーマや、雑誌などの特集に際して依頼されるテーマに即して、さまざまな文章を書き続けてきた。その時に、いつも心がけてきたのは、それまでとは一歩でも半歩でも前に進んだと自分が感じられる新しさを付け加えること。そうでなければ、せっかくもらった機会を活かすことにならないと感じていたからにすぎない。引き受けるときにできるという確信があるわけではない。過信とか思い上がりと周囲には見えていたかもしれないが、若気の至りのような挑戦が多様な分野に関心を広げる契機になったと思う。
そんな研究態度が成果を生んでいるのかどうかはわからない。もちろん、頼まれもしないのに、時間があれば、自分が集めた鉱山史の資料などでさまざまなモノグラフも書いているから、そんな自発的な研究活動も十分に楽しんできた。それに比べると、共同研究や講座の企画などで与えられた執筆の機会は、一緒に仕事をする人たちとの問題関心や方法的な視点の共有などを前提とするために、制約がきつく自由度は大きくない。だから、迷い、苦しい思いもしているが、その分だけ思い入れのある作品もある。
研究者は、一国一城の主のように振るまい、一人ひとりの業績で評価されるから、共同研究でも自分の研究関心を大事にすることを批判すべきではないだろう。しかし、スポーツでも個人競技と団体競技があるように、共同研究はチームとしての成果が問われるのであって、チームメンバーの個人成績ではない。個人の成果を重視するのでは本末転倒になる。ばらばらの論文をバインドしただけの「共同」研究にうんざりとしていたし、参加者に共有されているはずの問題関心やテーマに収斂させる意図も意欲もない「研究」を共同研究の論文にするのは研究者としての無責任さの現れと考えていた。そのために、望ましい共同研究のかたちやそれへの参加の仕方を自分なりに自己規制してきた。その通りに私の仕事が実現できているとまで強弁するつもりはない。不本意なものもある。
それでも、このような方向を目指したのは、経済史という限られた研究分野でもそれぞれの研究課題が著しく専門化し、そのために一人ひとりの研究者が達成できる範囲も限られているという現実に向き合い、そこにある問題点を克服するためには、共同で知恵を出し合って研究を進めるような研究活動が必要だと思うからである。そして、そうした共同研究では、課題解明というゴールに向かって、参加メンバーが自分の専門領域を少しでもはみ出して、それぞれ必要なパートを分担し、テーマに沿った研究成果を生み出す協力関係に立つ必要がある。それぞれが響き合って一つのテーマに収斂するような成果を全体として伝えるものになる必要がある。
銅山の研究という産業史から始まった私の研究業績のなかに、帝国主義論に関する方法を論じた論文や、「国際環境」、「恐慌」、「労使関係」、「景気循環と経済政策」、「企業社会」と題する論文など、異質な関心や視点からの作品が現れるのは、それぞれの共同研究・企画に即して不可欠な論点を引受けることを通してなにがしかの貢献をしたいと感じていたからである。専門とする得意な領域に籠城するのは、単に好みに合わなかっただけだから、野戦を好んであちこちで討ち死したというのが真実であるかもしれない。それでもこんな欲張りな研究者が一人くらいいても良いだろう。
そんなかたちで続けてきた研究生活の結果が、よく言えば多様な、実を言えば統一性のないバラバラな論文という在庫に集積している。本を作ることを想定して連作の論文を書き上げるような計画性からは無縁だったから仕方ない。その現実を前提に、既発表論文をバインドしただけの書物にしないとすればハードルは高い。「閉店間際の大売り出し」と称して自己規制を解き、思い切った安売り、在庫処分の誘惑に駆られる一方で、今少し諦めずにもがいてみたいと思うのだが、その時間もそれほどたくさんはない。
[たけだ はるひと/東京大学名誉教授]