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  • PR誌『評論』188号:新生活運動からみる戦後史の可能性(前)

新生活運動からみる戦後史の可能性(前)

松田 忍

幅広い年齢層の学生が受講する科目を担当する機会が数年間あった。戦後史について話すと多くの学生から自らの体験と講義内容をからめたレスポンスがある。新生活運動について話した際には「私の地元では今も新生活運動として門松カードが配られていますよ」という反応が複数の学生からあり、千葉県稲毛から通学していた女性からは門松カードの実物を後日いただいた。
こうした門松カード頒布の起源は1950年代にさかのぼるとされている。ところで、当時新生活運動として推進された運動は門松廃止だけではない。それ以外にも、衣服改善、台所・かまど改善、粉食奨励、蚊とハエをなくす運動、貯蓄奨励、家族計画の奨励、国産愛用運動、政治家のゴルフ・料亭利用の自粛、道義の高揚、民主主義精神の体得、話し合い運動、遵法精神の涵養といった運動が行われ、その内容は実に多岐にわたる。そして、そうした運動のなかから生まれた運動の一部が現在まで残ってきたのである。
およそ何らかの運動が立ち上がる時には、運動を巻き起こし推し進めるに足るエネルギー源が存在するはずであろう。しかし新生活運動に関しては、そのエネルギー源がいかなるものであったのかについて、我々はあまりにも無関心であった。確かに新生活運動の一環として取り組まれた家族計画や、かまど改善に代表される生活改善については研究の進展がみられる。しかし新生活運動と冠せられた多岐にわたる運動を、総体として歴史に位置づけようとする試みはこれまでなかった。
現在の視点からみれば「生活」ということばは私的領域に押し込まれて理解されがちである。しかし新生活運動の文脈では、政治・社会へと広く開かれ、人と人との関係性を問い直すタームとして「生活」が意識されていた。そして敗戦・復興・独立、高度成長といった状況に対応するために、人と人との関係性を再構築する必要が生じたことにこそ「生活」が「運動」となり、立ち上がる要件があった。本研究では、「生活」ということばに強い含意が与えられ、新生活運動を立ち上げるに至る力強い二つのうねり(前期=1940年代後半~60年代半ば、後期=60年代半ば~70年代)が存在していたことを指摘した。
前編である本稿では一つ目のうねり(前期)について述べる。敗戦直後から1960年代半ばにおいては、敗戦国日本が再建を果たし、真の独立国として立ち上がるため、人々の生きる現実(=「生活」)に存在した切迫した「生活」課題を人々が「話し合い」ながら一つずつ解決するプロセスが重要だと考えられた。そしてそのプロセスが「真の民主主義」だと把握され、「真の民主主義」を国民の間に根づかせることが目指された。そしてこの路線のもと新生活運動が推し進められたのである。
新生活運動は、近代日本が継続して取り組んできた政治的底辺の育成──たとえば地方改良運動──を、戦後再び「生活」の深さからなしとげようとする運動であった。そして「(戦時期においては)大政翼賛会的な権威的秩序が政治的底辺での国民形成を妨げた」(本書325頁)との認識に立ち、運動課題の選定自体も「生活」の側に任せていた点が戦後的であった。
アメリカによる復興路線の影響下におかれた戦後日本では、その路線を是とする立場、非とする立場が生まれ、それぞれの立場が民主主義を標榜した。こうした対立を我々は保革対立として論じてきたのであるが、新生活運動を研究することにより第三の政治路線の存在が一層鮮明になるだろう。すなわち、冷戦構造のなかで米ソ双方から距離を取って、「真の独立」を達成しようとする国民的エネルギーを背景とした前期の新生活運動は、いわゆる55年体制の保革対立に回収されない政治路線の存在を指し示している。新生活運動は国民を巻き込むブームとなると同時に、一定の政治的立場を表明する政治性を帯びていたのである。
新生活運動の存在を前提として、日本の戦後を検討することは、戦後日本の政治的土壌を保革で裁断して理解することを超えた日本の戦後イメージを育む可能性を秘めている。そのように本書執筆メンバーは考えている。(続)
[まつだ しのぶ/昭和女子大学専任講師]