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  • PR誌『評論』185号:岡部牧夫氏の歴史研究から何を継承するか

岡部牧夫氏の歴史研究から何を継承するか

柳沢 遊

2010年12月6日に、岡部牧夫氏が逝去されてから、はやくも約一年がたとうとしている。岡部牧夫氏という一人の現代史研究者の歩みを、彼の歴史学の課題意識に視点をあてて省みることにしたい。
1941年に東京市内代々木に生まれた岡部牧夫氏は、65年に成蹊大学政治経済学部を卒業するまで約12年間の「成蹊学園時代」に、ワンダーフォーゲル、安保闘争、『アルプ』の編集などを経験した。そして生態系や博物誌、西洋近代思想史への関心を深めた岡部氏は、大学卒業後には、文化人類学や現代史の研究に傾倒していった。60年代末には、高校時代の恩師荒井信一氏のすすめで、歴史学研究会編『太平洋戦争史』の執筆のための研究会に参加し、自ら執筆陣に加わる。日本現代史研究者としての歩みがここから始まった。
ここでの研究成果をもとに、満州事変前後の青年団体の動向を明らかにした論文「植民地ファシズム運動の成立と展開──満洲青年連盟と満洲協和党」(『歴史学研究』第406号、1974年3月)を著した。住居を長野県諏訪郡富士見町に定めた岡部氏は、満州農業移民政策とその実態、満州国の支配構造、植民地ファシズムとその担い手などの実証研究を相次いで発表していった。1980年代には、これらに加えて昭和天皇の歴史的役割をふくめて、日本の大陸侵略への途をどう理解するか、という日本現代史の難問に取り組み、アジア太平洋戦争の経緯と原因をめぐる執筆を行った。
岡部牧夫氏の現代史研究を支えた問題関心の所在を、『15年戦争史論──原因と結果と責任と』(青木書店、1999年)を事例に検討してみよう。
本書は、戦争の各段階を通時的に記述した・部、植民地・占領期の諸問題を叙述した・部、15年戦争をめぐる「戦争責任」の問題を論じている・部から構成されている。とくに日本がなぜ、無謀な侵略戦争をおこし、さらにそれを拡大していったかという研究動機は、本書の各箇所にみられる。「(中略)日本がこのような強権支配と収奪をおこなったのは、日本の経済力がほかの帝国主義強国に比べて一段と脆弱であったことにくわえて、本国においても民主主義の伝統があさく、世界大恐慌の打撃や、満州事変前後から急速に進展した軍国主義化・ファッシズム化によって、1920年代にみられた政治的・社会的な一定の民主化の傾向(大正デモクラシー)が急速に圧殺されたことの反映でもあった」(113頁)という評価は、1970~80年代の歴史学研究の成果(『岩波講座 日本歴史 近代七』岩波書店、1976年、『講座 日本歴史10 近代4』東京大学出版会、1985年など)に照応している。実際、本書では前時代に獲得した帝国主義権益の実現と拡大のために、侵略行為を拡大させていく動向と、そうした路線を制御できなかった歴史的事情が、時期ごとに説得的に叙述されている。1980年代前半期までは、経済史をふくむ多くの研究者の間で、「1930年代論」が盛んであり、日本経済の対外依存性と軍事侵略の拡大との矛盾をいかに整合的に説明するかは、ほぼ共通した問題関心であった。岡部氏の功績は、1999年という新しい時代にあって、あらためて、「15年戦争」の因果関連を問うという論点設定を行ったことにあるといえよう。
1990年代後半から岡部氏は、日本現代史研究をさらにすすめるとともに、日本植民地研究の実証分析と研究動向の展望論文をあいついで発表した。大日方純夫他編『講座 戦争と現代3 近代日本の戦争をどう見るか』(大月書店、2004年)では、「15年戦争と日本の国家・国民」を執筆し、戦争の遂行にかかわった指導層と国民の政治意識、さらに天皇制政治機構の多元性にあらたにメスをいれて「十五年戦争」拡大の道筋をあきらかにした。さらに、2008年になると、岡部氏の研究は、全面開花のときをむかえた。
日本植民地研究会編『日本植民地研究の現状と課題』アテネ社、植民地文化学会ほか編『「満洲国」とは何だったのか』小学館、などの共同執筆の論文集で、構成上不可欠な役割の論文を分担執筆するとともに、満鉄史研究会の縮小再編の帰結としてまとまった『南満州鉄道会社の研究』を、日本経済評論社から刊行するにあたって、編者・複数論文の執筆者・刊行実務担当者として大活躍されたのである。ここでは、本書の「序章 南満州鉄道会社の40年」より、岡部氏の満鉄を切り口とした歴史認識の一端をみておきたい。本章では、満鉄の役員構成の変遷やその政治過程との関連をあとづけ、15年戦争の展開と「満州国」樹立が満鉄の性格をどのように変えたかを、論述している。ここで岡部氏は、満鉄改組と華北進出について「軍部が主導しはじめた総力戦体制構築の構想と密接に関連していた。軍部の構想の一端は1936─37年の満州産業開発五ヶ年計画の策定に具体化するが、日本国内でもこの時期には2・26事件や馬場財政を転機に国家独占資本主義への本格的移行が始まっていた。」(17頁)という注目すべき評価をしている。この評価は、「『満鉄改組問題』から『在満機構改革問題』をへて、新興財閥日産の満州移駐により満州重工業開発株式会社(満重)を設立し、これを満鉄に代わる対満投資と重工業構築の中心機関とした一連の過程は、軍部主導の統制政策下の重工業構築が究極的には独占資本との協力なしでは不可能であることを示した」(原朗「『満州』における経済統制政策の展開」『日本経済政策史論』東京大学出版会、210頁)という経済史研究者の評価とも通底している。2・26事件の時期が、日本国内・満州のいずれの地域においても、「軍主導」の総力戦体制構築にとっての重要な画期として位置づけられているのである。
岡部氏が取り組んできた領域は、日本ファシズム史・昭和天皇論・満鉄史・移民史など多岐に及んだが、いずれも「日本が侵略を拡大し、最終的に破滅に至ったのは何故か」という彼の人生に関わる切実な課題意識に支えられていた。今日の現代史研究者は、こうした岡部史学を果たして継承・発展できるのであろうか。政治史と経済史との分裂が固定化し、戦前日本の対外侵略の論理究明への意欲が衰退している今日の学界状況で、岡部史学の発展的継承は困難な課題であろう。
(追記)岡部牧夫氏の生涯については、塩谷マキ編『生涯学生・一生青春 岡部牧夫 1941─2010』(アテネ社刊)に詳しい。
[やなぎさわ あそぶ/慶應義塾大学教授]